近藤勇への熱い想いを行動で示す永倉新八
永倉新八は袂を分かっても、近藤勇・土方歳三をはじめとする新選組への想いは強くなっていくことから慰霊碑を作ることを決意しました。しかしその手続きは大変なものだったのですよ。
東京府へまず上申→内務卿の大久保利通へ裁可を仰ぐ→大久保利通から上申が更に太政大臣の三条実美へと上がり裁可が降りた→参議の大隈重信と伊藤弘文の調印。
そしてようやく近藤勇の最期の地である東京の板橋にある「寿徳寺」へ明治9年に建立されました。協力してくれたのは将軍家御典医で、近藤勇や新選組と親しかった松本良順たちです。「近藤・土方供養碑」の隣には、永倉新八の遺骨の一部が入れられた永倉新八のお墓があります。
老後に有名なエピソードを持つ永倉新八
〇日清戦争
明治27年(1894)の日清戦争開戦時、55歳の永倉は抜刀隊に志願したものの、高齢を理由に「お気持ちだけ」と断られた。
〇映画
映画が好きで「近藤と土方は若くして死んでしまったが、自分は長生きしたからこんな不思議なものが観られた」と感慨深く語った。
〇ヤクザ
孫と一緒に映画を観た帰りにヤクザにからまれるが、鋭い眼光と一喝で撃退した。
大正4年(1915)1月5日、虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発して死去。享年77。
永倉新八がいなかったら新選組の姿はわからなかった
永倉新八の『新選組顛末記』は自伝ですので、多少は自分を格好良く書いているところはあるようですね。高齢でしたので多少の記憶違いもあったようですが。織田信長の『信長公記』と並ぶ一級史料という話を聞いたことがあります。真面目で清廉潔白で「竹刀の音を聞かないと飯が喉に通らない」「自分は剣術の他に能はない」と晩年まで稽古をかかさなかった愛すべき人のおかげで、これがなかったら明治新政府によって悪鬼のような集団としてのみ語り継がれていたかもしれません。