室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代を駆け抜けた女城主「井伊直虎」の46年の生涯に迫る!

3-2井伊家一族の危機

父が謀反で殺されて、息子が無事なわけがありません。当時10歳だった亀之丞も、義元から死罪を言い渡されたのです。だからといって、井伊家も一族の大切な後の当主をみすみす殺させるわけにはいきません。

一端山中に匿いその後、家老今村正実(いまむらまさざね)が、藁のむしろで作ったかますに亀之丞を入れ、背負って信濃国の「松源寺」に連れていきました。二人は10年以上匿われて暮らしたのです。直盛の叔父で龍潭寺の僧侶南渓瑞聞(なんけいずいもん)の力添えがあったからといわれています。

3-3傷心の直虎は龍潭寺に出家

直虎も、周囲の反対を押し切って龍潭寺に出家しました。直虎は亀之丞が、死んだと勘違いをしたからでした。こんなご時世、許嫁の直虎であっても、亀之丞が生きているなんて口が裂けてもいえなかったのです。井伊一族の男性なら、南渓和尚がいるのでは?と思った人もいるでしょう。実は、直平の養子といわれていることと、当時今川氏は僧侶を勝手に還俗させるのはご法度としており、南渓和尚に家督を継がせることはできませんでした。

実は直満は、粗暴で直情径行型の人物と思われており、将来今川の災いになると冤罪で処刑されたようです。亀之丞と直虎が結婚して家督を継ぎ、井伊家の実権を直満が握れば、今川家を滅ぼすかもしれないと内々に噂されていたとか。幸か不幸か、この一件の後今川家の領国、駿河国と遠江国には、平穏な日々が訪れています。亀之丞の命は救われたものの、許嫁の話も破断状態で直虎は一人ぼっちでした。

3-4なぜ直虎は出家した?

直虎の父直盛は、跡継ぎについては全く手を打っていません。松平広忠が急死し岡崎城も手中に収めています。三河を領国にすべく立場となっており、今川の全盛期を迎えていました。誰もが、今川についていれば生涯安泰と思っていたほどです。

直虎も亀之丞が生きているのではと、何となく気がついていました。直虎が出家する意味があるのか不思議に思いませんか?悪の首謀者で家老の小野政直の息子小野但馬守道好(おのたじまのかみみちよし)を、直虎の婿とさせようと目論んでいたのです。

それを阻止するためには、直虎自身が出家するしか方法がないと思ったといわれています。これは、物語上のことで、本当かどうかは分かっていません。亀之丞にもしものことが…。とのことを考えるはずなのに、何も手を打たなかったのは、何かの理由があったことは推察できますね。

4.またも訪れる井伊家存亡の危機

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匿われていた亀之丞こと直親が帰還できる日がやってきました。しかし、戦国の世は波乱の渦の中。井伊家は今川に翻弄され、お家存亡の危機に直面します。当主を失い続ける井伊家は、過去を見ない危機に陥りました。

4-1夢にまで見た直親の帰還

直満を讒言によって陥れた、小野政直が病死したのです。これでやっと井伊谷に、「松源寺」で暮らしていた亀之丞が帰国できました。帰って来た亀之丞は、予定通り直虎の父直盛の養子となりました。この時に名前も、亀之丞から直親へと改名しました。でも、残念なことに、直虎は既に出家し髪を下していたため、結婚は叶いませんでした

直親は、井伊家分家の実力者として知られる奥山朝利(おくやまともとし)の娘ひよを正室に迎えました。でも、直親とひよが結婚したのは、直親が逃亡中のこと。永禄4年(1561)に虎松(とらまつ・後の直政)を産んでいます。

4-2桶狭間の戦いで天下から地へ落ちた今川

平和な日々が訪れていた今川領でしたが、残念なことに永禄3年(1560)に起った桶狭間の戦いで今川義元軍が大敗を期したのです。もちろん相手は、尾張を治めていた織田信長。今川軍は、2万5000もの兵を連れて尾張に侵攻しています。あらくれものの織田信長なんぞに負けるわけがないと、高をくくっていました。

しかし、義元の本体が桶狭間で休んでいる空きに、織田軍が奇襲攻撃を仕掛けたのです。今川義元は戦死。本体に同行して出兵していた直虎の父直盛も戦死しました。直親の帰還で喜びに沸いていた、井伊家にまた暗い影を落としました。元許嫁は他の女性と結婚しており、父までも戦死。直虎の悲しみはどれほどのものだったでしょう。

義元を失った今川には諸国を抑える力はありませんでした。今川に臣従していた松平元康(後の徳川家康)は独立した上で、織田と組みし今川家に対立姿勢をとったのです。もちろんこの行動には、他の家臣にも動揺が広がりました。

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