室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代を駆け抜けた女城主「井伊直虎」の46年の生涯に迫る!

4-3井伊家1000年の歴史の中で最大の危機

直盛が戦死した2年後の永禄5年(1562)のこと。またしても、井伊家に悲劇が訪れました。直親がまたも小野家の道好の讒言によって、殺害されます。直親と松平元家が通じていると、道好が密告したのです。直親には身に覚えのないこと。

直親は申し開きをするために今川氏真(いまがわうじざね)の居城に向かいました。その途中に、今川家家臣の朝比奈泰朝(あさひなやすとも)に襲撃されたのです。そこで、直親は命を落としました。

5.次郎法師直虎お家の危機を救う

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井伊家1000年の歴史の中で最大の危機に陥ったのです。立て続けに当主を失ってしまい、井伊家は断絶の危機に直面しました。ここで登場するのが直虎です。窮地を救うために、彼女自身が当主となります

5-1井伊谷の女城主直虎誕生!

万事休すと思いきや、まだ伊井家には直親の忘れ形見「虎松」が残っていたのです。でも、直親の時と同様、虎松にも誅殺の命がくだされました。井伊家一丸となって、虎松の命を救う方法はないかと策を練りました。

井伊の縁戚だった、新野親矩(にいのちかのり)が救済しました。今川氏に嘆願し、氏真の祖母寿桂尼にまで助命を願い出ました。虎松は新野家で養育されることになり命を救われています。虎松の後見人だった直平が突然死、更に恩人新野親矩も浜松城攻めで戦死してしまいました。虎松は、完全に後ろ盾を失ってしまいました。

これで伊井家も終わりと思ったとき、南渓和尚が次郎法師を当主に据え、虎松の後見人とすることを思いついたのです。これで、次郎法師は直虎と名を改めました。この、案は今川にも認められ、井伊家存続は首の皮一枚で繋がりました。

5-2今川の狙いは井伊家を潰すこと!徳政令発布

井伊谷は、相次ぐ戦乱の地にされており、不作続きで疲弊していきました。そこで今川は、徳政令(借金を帳消しにする)を実施するように、直虎に命をくだしました。これは、井伊家の土地を奪いたい、氏真からの直虎に対する挑戦状でした。

直虎は現実と君主からの圧力の板挟みに、苦しむことになるのです。直虎は、徳政令の施行を遅らせることで切り抜けました。また、民にお金を貸していた龍潭寺や商人には、徳政令免除の命を出し保護しています。

お金のない領主は、民と商人などの均衡を図ることで、結果的に両方を救う策に出たのでした。徳政令を遅らせる間は、氏真から何度も圧力がかかっていました。徳政令は今川家の介入により、強制的に施行されたのです。行われるまでの2年間の間で、領地も安定しており大きな混乱は起こりませんでした

5-3直虎の統治権剥奪からの復習

徳政令の一件で氏真の逆鱗に触れた直虎は、統治権を剥奪され追放となりました。この後は、龍潭寺に身を寄せています。氏真と小野道好が裏で繋がっており、領主はもちろん小野道好が担いました。しかし、小野家の栄華は長くは続きませんでした。

徳川家康が遠江国へ侵攻してきたのです。今までの井伊家の扱いに苛立っていた井伊谷三人衆と呼ばれる菅沼忠久、鈴木重時、近藤康用は、今川家を裏切り徳川家の進軍を助けました。家康の迅速な進軍に動揺した今川家臣は、次々と徳川家に寝返っています。小野道好は、山中に逃げるも捕まり、直親を讒言した罪で処刑されました。

6.井伊家再興を願う直虎

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直虎は、龍潭寺で暮らしながら、虎松が健やかに成長することと井伊谷の民の幸せ、井伊家再興を願っていました。そんな時、徳川家に虎松を出仕させて、井伊家を復興させることを思いついたのです。

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