室町時代戦国時代日本の歴史

戦国時代を駆け抜けた女城主「井伊直虎」の46年の生涯に迫る!

6-1道好死後の井伊谷

小野道好が死んだ後の井伊谷は、井伊谷三人衆によって守られました。今川氏真は、徳川家康と武田信玄両軍に攻められ、掛川城で降伏しています。後に両者は対立し、三方ヶ原の戦いで、家康がコテンパに粉砕されました。運のいいことに、武田信玄が陣中で倒れ撤退。その後病死しました。徳川家と井伊家は、まさに九死に一生を得たのでした。

一方虎松は、新野親矩(にいのちかのり)に庇護され養育されるも、2年後に親矩は戦死。直虎のもとで暮らすも小野道好が命を狙ったため、南渓和尚は三河国の鳳来寺に逃しました。虎松の母は、松下清景(まつしたきよかげ)と再婚しています。その後も虎松は、鳳来寺で養育されました。

6-2井伊家再興とその後の直虎

天正2年(1574)に直親の法要が井伊谷で行われました。そこで虎松の母と直虎、直虎の母が集まり、虎松の今後について話し合ったようです。虎松をいったん母が嫁いだ松下家の養子にし、徳川家に出仕させ、井伊家を復興させることを考えました。

翌天正3年(1575)虎松は家康と面会し、家来に取り立てられました。その後家康に、井伊を名乗ることを許され、井伊万千代(いいまんちよ)と改名しました。翌年には初陣を見事に果たし、天正10年(1582)には井伊直政を名乗りました。その後は井伊の赤鬼と恐れられる徳川四天王のひとりとなりました

残念ながら天正8年(1580)8月26日に、直虎は龍潭寺境内で亡くなりました。井伊家再興を見ることができましたが、井伊直政を名乗る姿は見られませんでした。井伊谷の動乱の時代を女だてらに切り抜けた直虎は、民に愛されながら幸せな余生を送っています。

女城主直虎は、井伊谷の民の心に残る領主だった

image by PIXTA / 24590190

直虎は、明日の日が分からない戦乱の世の中を、たくましくかつ誠実に生きた女性だと思います。民のためになることを常に考え、時には民と共に土にまみれて農作業をしたこともあったようです。一番の功績は、虎松を守り井伊家を再興させたことでしょう。

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