6-3.自らを「新皇」とした将門
現状に弟の将平は、頭を痛めました。この時の将門には、将平の意見も耳に入りません。将門は「朝廷の支配に置かれた坂東はもうない。坂東の帝に俺が即位した!」と言い放ちました。坂東をまとめるには、「新皇」になるしかないと、将平を黙らせました。
しかも将門は「新皇」になると宣言する場に、仕掛けをしていました。八幡大菩薩を登場させることで、政治的な争いに敗れ無念の死を遂げた「菅原道真公」が新皇の位を授けたと思いこませたのです。
6-4.朝廷から”菅原道真のたたり”と恐れられた将門
朝廷からマークされ命を狙われていた将門の周辺警備は、ネズミ一匹入り込めないほど厳重でした。宣言の場に見ず知らずの女性が巫女の姿で現れ、「朝廷の恨みを持つ道真が味方だ」と認識させるのです。そうすれば、将門への信仰は熱くなり士気も上がると考えたからでした。
将門が自らを「新皇」と名乗ったことは、すぐに京に伝わります。即位の場に八幡大菩薩が出現したと朝廷では噂となり、「道真のたたりだ」と恐れおののきました。京の人々の恐怖心は、将門討伐へと向くのです。
弟将平は帝の名を名乗ることにも大反対!重要な家来や弟たちは、将門の命で坂東の国司になるも、頼れる相談役を担当していた将平は選ばれませんでした。用無しとの烙印を押されたのです。坂東の人々が喜び興奮する中、一人寂しく将門のもとから姿を消しました。
6-5.将門の終焉
天慶3(940)年1月に朝廷は、各国の兵たちを集め将門討伐のための軍を作りました。「新皇」を名乗って2ヶ月後の2月14日に、国香の子貞盛や下野国の藤原秀郷らの討伐軍により、額に矢を射られ絶命しました。
残念ながら天皇中心の律令国家を廃止し、武力に長けたものが台頭する武士中心の国造りに挑んだ将門の目論見は消え去ります。しかし、死後に藤原秀郷によって関東では武士が台頭し、それが全国各地に広がりました。「平将門の乱」は、源氏の鎌倉幕府が行う武家政権の道標となったようです。
将門は、朝廷からは憎まれた存在でしたが、人々から慕われ兵として英雄視され、神様として神田明神に祀られています。
6-6.将門はこの世に恨みを残した?
将門の首は都に届けられ、さらし首になりました。胴体が首を探して飛んだなどの「将門伝説」が、絵巻になっています。菅原道真と崇徳上皇と共に「日本三大怨霊」として恐れられ、江戸時代には浮世絵、歌舞伎の題材にもなりました。
「平将門の乱」を復習すると、藤原玄明を助けるため朝廷が派遣した常陸の国司に和解を求めるも失敗に終わります。武力で国司を破り最新の武器を奪い、更に力を付けました。馬に乗り弓を使った戦い方を身に着けていた将門は、武力で関東を手中に収め、自称「新皇」と独立宣言するのです。これらの行動は、朝廷への反乱とされ、朝廷の将門討伐軍に討たれ終焉しました。
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7.同時期におこったもう一つの乱
東では「平将門の乱」、西の瀬戸内海では「藤原純友の乱」がおこりました。同時期に起った2つの乱は、「承平・天慶の乱」といわれています。都を挟んで東西で同時期に起っており、朝廷は二人が屈託して反乱を起こしたと思ったようです。
事実は確認できていませんが、二人は承平6(936)年8月19日に比叡山の頂上で、平安京を見下しながら謀反の契りを立てたと、後に『大鏡』や『将門純友東西軍記』などで執筆されています。
7-1.「藤原純友の乱」とは?
藤原純友は、伊予国(愛媛県)の国司だった人物です。任期満了後もここに土着し、1,000人ともいわれる海賊たちの頭となりました。天慶2(939)年に日振島(宇和島)を拠点に、朝廷相手に挙兵し反乱を起こしました。
「平将門の乱」とほぼ同時期に、純友率いる海賊が、備前国(岡山県)と播磨国(兵庫県)を襲ったことが始まりです。東西で一度に起った反乱に朝廷は大混乱。天皇の先祖を祀った伊勢神宮にも乱を鎮静化させるための祈祷を依頼しています。
朝廷は純友に「従五位の下」という位を用意し、反乱を鎮めようと目論んだのです。純友は喜んで位を貰うも、海賊行為は続きました。淡路(兵庫)、讃岐(香川)、大宰府などの国府を襲撃しています。天慶4(941)年6月20日には、小野好古らによって討たれました。
平将門は、隣国の人々からも慕われた庶民のヒーロー
荒々しく傲慢な印象ですが、本当の将門は優しい人物だったようです。宿敵平貞盛や源扶(源平合戦の源氏とは関係ない)の妻たちを捕えた時は手厚く解放し、農民たちをも大切にした優しい人柄が人気に拍車をかけました。庶民のために公然と朝廷に立ち向かったヒーローとして、人々の脳裏に焼き付いています。
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