平安時代日本の歴史

5分でわかる「平将門」の生涯ー平将門の乱はなぜ起きた?刀は?わかりやすく解説

4.帰国した時何が起きた?

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故国では、陸奥国開拓のための強制的な移住や防人や蝦夷政討のための徴兵、国司たちのわがままな態度や過度な納税など、民衆への裏切り行為が散見されました。民衆の不満が渦巻く坂東の救世主となったのが「平将門」です。「坂東の風雲児」と称される名声は、京の都まで轟いたといわれています。

4-1.帰国するも…

将門は藤原北家の氏長者「忠平」に、侍(さぶら)っていた頃に父が亡くなります。父の早世を受け、延長8(930)年に将門と弟の将平は坂東の地に帰国しました。父が拠点としていた下総国の領地を、おじたちが自分の物にしたことを知り激怒しますが、下総国豊田に本拠を築きます。

将門の領地には、坂東各地から、農民たちが移ってきました。それは、年貢を少なくするなど、民のことを一番に考えていたからのようです。農民たちを取られた、おじたちは将門を懲らしめるべく、戦を仕掛けます。しかし、農民たちは、将門を「坂東一の兵」と崇め一致団結し、戦いに挑み勝利するのです。既に領地を取り返すべく、動き出していたのでした。

ちょっと雑学

先ほど、「侍(さぶら)って」という言葉を使いましたが、この「さぶらう」が「さぶらい」となり、「侍(さむらい)」に変化したといわれています。(「侍う」の意味は、「目上の人のそばに仕える」です。)

4-2.反乱のきっかけはもうひとつ

反乱のきっかけは、領地問題だけでないとか。「源衛(みなもとまもる)」の娘との婚姻を望むも、おじ良正と良兼、国香の元へ嫁いでしまい、憤慨します。一節によると、将門の妻だった良兼の娘を、源護の息子が横恋慕したことが反乱の起因とも。

承平5(935)年には、亡き父の領地を国香から奪い返しました。将門を恐れた国香は、義父である源護と屈託し暗殺計画を立て、実行するも失敗。将門が返り討ちにして、国香と源護の3人の息子を殺したのです。

4-3.将門人々を助ける

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将門の屋敷には、豪族までもが、連日のように保護を求めて訪れていたのです。中には税金で苦しむ民を助けるために、国司の「興世王(おきよおう)」と一線を交えた「武蔵武芝(むさしのたけしば)」や、力で農作物を奪取し常陸国から追い出された暴れ者の豪族「藤原玄明(ふじわらのはるあき)」もいました。

一端は将門の仲介で武蔵武芝と和解した興世王は、後に京から派遣された国司百済貞連と対立し、政治を放り出して将門のもとに逃げ込みました。常陸国から敵視されマークされている藤原玄明をも、自らの危険を顧みず救済したことで、「暴れ者も助ける懐の深い人物」と人気が更にUPしたのです。

4-4.全国にまで勇名は広まった

一族内の激戦の中でどんどん実力を付けて、野盗退治にも自ら携わり、野盗たちも将門の領地には手を出さなくなりました。「他の豪族や役人とは違う」と、評判が広まった将門のもとには、更に救済を求める人々がやって来たのです。農民たちだけでなく、郡司や豪族らも移ってきました。

坂東の人々の厚い信頼も得て急速に勢力を拡大し、朝廷を脅かす存在となります。トップレベルの力を持つ将門は、スーパー有名人になったということでしょう。将門をきっかけに、武士が歴史上に登場します。

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