安土桃山時代室町時代戦国時代日本の歴史

豊臣秀吉はなぜ千利休を切腹させた?2人の関係をわかりやすく解説

千利休の豊臣秀吉への決定的な罪

image by PIXTA / 33781636

秀吉の心に灯った嫉妬心と、敵がい心は、利休の言動に対して寛容性を無くしていきます。そして、石田三成によって、決定的な利休の罪が報告されるのです。

大徳寺の利休像による不敬罪

秀吉が行くことになっていた大徳寺の新設の三門(楼門:金毛閣)の上に、利休の像が置かれていることが報告されたのです。すなわち、天下人である豊臣秀吉が、千利休の足の下を通るという屈辱的な事態が引き起こされました

恐らく、利休自身は秀吉が大徳寺にお参りに行くことも、その三門に自分の像が置かれていることも知らなかったのではないかと言われています。利休は、大徳寺の三門の建て替えについて資金面の援助を行っており、それに感謝した住持がその感謝のために置いたと言われているのです。それを、石田三成の最後の意地悪で秀吉に報告したと見たほうがよいでしょう。あるいは、石田三成が置くように勧めたのかもしれません。

しかし、この報告によって秀吉の堪忍袋の緒はついに破れたのです。

自宅謹慎と切腹で関係を清算させた秀吉

千利休は、この事件によって、自宅謹慎となり、ついには切腹の沙汰がおり、自害を強いられます。かなりの人たちがこの措置を反対しましたが、実施されたのです。その背景には、朝鮮出兵に対して、利休が反対していたこともあったと言われています。朝鮮出兵は、利休の切腹の翌年に行われているのです。

恐らく、聡明な利休は、小田原攻めが終わった時点でこの日が来ることを予想していたと考えられます。しかし、それでも、自分の姿勢・信条を変えようとはせず、以前の秀吉との向き合い方を変えなかったのです。黒田官兵衛は、自分が恐れられているとわかると家督を息子に譲り、時には頭を丸めて諌めることもしていますが、利休が一切そのような態度をとりませんでした。

晩年の豊臣秀吉は、弟の秀長もおらず、老害とも言えるわがままさが出て、忍耐力が無くなっていました。関白豊臣秀次の処分でもそれは見られます。天下人として権力者となり、誰も彼を止める人がいなくなっていたのです。わずかに、千利休その人がそのような存在でした。その彼もついには切腹を命じられてしまったのです。

時代の変化に対応せずに自分の生き方を貫いた利休

image by PIXTA / 13558964

利休は、多くの情報を持っており、堺を背景にして、それを武器として信長、秀吉の二人に仕えた聡明で、また、禅宗の侘びさびの世界を理解した優秀な人物だったと言えます。しかし、その自分の持つ財産を手放して、秀吉の風下に立つことはしませんでした。自分の生き方に誇りを持ち、その生き方を貫くことで自分の人生が終わることもわかっていたでしょう。それでも、自分の道を捨てなかったのです。黒田官兵衛のようにしたたかにいきる道もありますが、このように自分の道を捨てずに生きる生き方もあります。その点、関ヶ原の合戦以降、徳川家康に従わず、大名の地位を追われた立花宗茂などは利休の生き方に似ていると言えるでしょう。

千利休に見る生き方や信条を貫く難しさ

image by PIXTA / 4629401

千利休と豊臣秀吉の関係は秀吉の立場が変わっていくに従い、変わっていきましたが、利休は自分の立場が変わっても、自身の生き方や信条というものを変えようとしませんでした。それは、貴重な生き方でもありますが、それには相当の覚悟が必要です。その覚悟があったからこそ、千利休は現代でも茶道における輝かしい存在となっています。私たちも、利休のように覚悟を持って生きるようにしたいものですね。

1 2 3 4
Share: