信長が秀吉に変わっても利休の立場と態度は変わらなかった
そして、信長の茶道の師匠であり、相談役であった千利休の立場はそのまま秀吉に引き継がれます。
すなわち、利休は、秀吉の茶道の師匠としての立場と共に、相談役にもなったのです。織田信長と豊臣秀吉の二人の相談役兼師匠になったのは、千利休だけでした。それは、やはりこの時点では利休の存在はそれだけの価値があったからでした。それはどのような価値だったのでしょう。
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利休は堺の商人だけに多くの情報を持っていた
利休は、堺の商人であり、太い堺とのパイプを持っていました。そこから全国の諸大名の動きや海外からの武器の移動の情報などを知っており、その情報は、天下統一を狙う秀吉にとっても重要な情報だったのです。秀吉の最後の天下統一の戦いになった小田原の北条氏討伐においても、小田原城を包囲した秀吉は茶会を開いており、千利休も同席していたと考えられます。
秀吉には、黒田官兵衛という軍師が控えていましたが、敵の情報という点において利休は非常に多くの情報を持っており、官兵衛もそれを認める欠かせぬ情報源だったのです。
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豊臣秀吉と利休の関係に変化の兆し
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しかし、良好だった秀吉と千利休の関係はいつしか冷え込んでいきます。秀吉の感情面における変化はもちろんですが、それよりも利休が置かれた環境に大きな変化が訪れたからです。
北野茶会でほころびが出始める
豊臣秀吉は、信長の後継者になった頃に、当時は広大な境内を持っていた北野天満宮で、北野茶会(北野大茶湯)と呼ばれるかつてないほどの規模の大きい茶会を催します。この北野茶会で、京都庶民が一番お茶を求めたのは、秀吉ではなく、千利休の入れるお茶であったようです。そのために、秀吉の中に嫉妬の炎がついたとも言われています。そのために、北野茶会は予定よりも早く2日目には終わったと言われているのです。(ただ、原因には諸説あります。)
千利休を罰することのできない豊臣秀吉
しかし、利休に対する嫉妬心があっても、秀吉は利休に対して何もできませんでした。それは、利休がさまざまな情報を持っており、堺を従わせるためにも、利休が必要だったからです。しかし、利休には、何もできない秀吉に対する傲慢さが生まれたのは事実でしょう。もともと自分のほうが信長に仕えるものとしては上の立場にいたこともあり、秀吉に素直に仕えることには抵抗もあったのかもしれません。そのために、時々、秀吉に対して上から目線での発言もあったのです。
しかし、利休の持つ情報が天下統一にとって欠かせぬものである以上は、秀吉は利休を罰することはできませんでした。恐らく、黒田官兵衛や弟の豊臣秀長などもそれを支持していたと考えられます。