フランスフランス革命ブルボン朝ヨーロッパの歴史

5分でわかる「フランス革命」背景・経緯などおおまかな流れをわかりやすく解説

人権宣言とヴェルサイユ行進

1789年8月、国民議会は歴史的な宣言を発表しました。それが、人権宣言です。起草者のラ=ファイエットはアメリカ独立戦争にも義勇軍として参加した人物でした。

宣言は自由で平等な個人が結びつくことで国民中心の国をつくるといった内容です。具体的には国民の自由と平等の保証、圧政に抵抗する権利、国民主権、法の支配と権力の分立、私有財産の不可侵権などからなります。

ところが、国民議会が定めたことをルイ16世は承認しませんでした。議会や市民のイライラが募る中、その年の小麦の凶作による食糧不足が深刻化します。1789年10月、パリの女性市民6~7千人がヴェルサイユ宮殿まで行進。国王夫妻をパリまで連行したのです。この行進をヴェルサイユ行進といいます。こうして革命の舞台はヴェルサイユからパリへと移りました。

ヴァレンヌ逃亡事件

パリに連行されたルイ16世は安心して過ごすことができなくなります。特に、王政を維持しようとしていたミラボーの死は一層国王を不安にさせたことでしょう。1791年6月、国王夫妻は妻マリー=アントワネットの実家であるオーストリアを頼るべく用意させた馬車に乗ってパリを脱出。しかし、北東部の国境付近の街ヴァレンヌで捕らえられパリに連行されました。

国を捨てて逃亡しようとしたルイ16世夫妻の行動は問題視されます。彼らに対し国民は冷たいまなざしを向けました。連れ戻されたルイ16世夫妻はチュイルリー宮殿に幽閉されます。この事件は国王の権威を大きく失墜。議会や市民の中で王政を廃止して共和政にするべきだとの声が大きくなりました。1791年9月に憲法が成立。国民議会は役割を終え、解散しました。国王の逃亡問題の処理は次の国民公会へと委ねられます。

革命の激化と終焉

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フランスにおける急激な革命の進展は周辺諸国に警戒感を抱かせます。最初はマリー=アントワネットの実家であるオーストリアが、その後はイギリスが中心となってフランスを抑え込もうと動きました。フランス革命は諸外国の干渉を受けつつも、さらに進展していきます。革命時の混乱はナポレオンの登場まで続きました。

立法議会の成立と対オーストリア宣戦布告

1791年に制定された憲法に基づいて招集されたのが立法議会です。立法議会の中心勢力となったのはフイヤン派とジロンド派でした。1792年になるとジロンド派の勢いが強まります。ジロンド派は反対派を黙らせ国内を団結するために外国と戦うことを考えました。

立法議会成立の少し前、オーストリアはヴァレンヌ逃亡事件で国王夫妻が捕らえられた直後にピルニッツ宣言を出しています。宣言でオーストリアとプロイセンはフランス王権の回復のため諸外国がルイ16世を救援することを訴えました。ジロンド派の立法議会は革命に対するオーストリアの干渉を排除するため、オーストリアに宣戦布告を行ったのです。

戦いの当初、フランス軍は敗北を重ねます。フランス軍の指揮官の多くは貴族出身で兵士も戦意に乏しかったからです。一時、パリは大混乱に陥りましたがヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利。かろうじて持ちこたえました。この時、マルセイユから駆け付けた義勇軍が歌っていたの後にフランス国家となる「ラ=マルセイエーズ」です。

国民公会の成立と国王処刑

革命のさなかの1792年9月、フランスで財産制限がない男性普通選挙が実施されました。この選挙の結果できた議会を国民公会とよびます。国民公会成立の翌日には王政の廃止と共和政成立が宣言されました。

国民公会には穏健共和主義のジロンド派過激共和主義のジャコバン派が存在。この二派は元国王の扱いで対立しました。国王の処刑により外国が態度を硬化させることを恐れたジロンド派は死刑に反対。ロベスピエールらのジャコバン派は共和政に元国王の存在は許されないと死刑を強く主張しました。

国王が外国に支援を要請していた証拠がパリの宮殿で発見されると議論は一気に国王処刑に傾きます。1793年1月、元国王ルイ16世と元王妃のマリー=アントワネットはシャンゼリゼ通りに連なるコンコルド広場で断頭台の露と消えました。

ジャコバン派による独裁政権

ルイ16世の処刑は周辺諸国の反発を招き、イギリスなどが第一回対仏大同盟を結成。フランス国内では急進的なジャコバン派が勢いを増します。1793年6月、ジャコバン派は国民公会からジロンド派を追放。ジャコバン派の独裁政権が始まりました。

独裁政権の指導者はロベスピエールです。弁護士出身のロベスピエールは王党派や反革命派、外国の干渉から革命を守らなければならないと主張しました。まず、ロベスピエールは徴兵制を実行し軍隊を強化。続いて反対派を次々と粛清しました。

ジャコバン派の同志であったエベールは急進的だったとして、ダントンは反対派に妥協しすぎるとしてそれぞれ処刑されます。さらに、封建的特権を無条件で廃止して農奴を完全に解放し、革命の徹底を図りました。

加えてモノの値段を抑えるための最高価格令や新しい暦である革命暦の制定なども行います。ロベスピエールの改革は評価が分かれるところですが、革命を一気に進めたのは確かですね。

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