戦いの経過
後鳥羽上皇とその側近たちは上皇の命令(院宣)がでれば、多くの武士たちが朝廷に従うだろうと考えていました。ところが、政子が先手を打って関東御家人たちの心をまとめたため計算が狂い始めます。
幕府執権の北条義時はすぐに朝廷軍と戦う作戦を立案。20万の大軍を3方面に分けて進撃させることを決定します。政子の演説からわずか3日後、幕府は軍を京都に向けて進発させました。
上皇方はおよそ3万の軍を集め鎌倉を攻める準備をしていましたが幕府の動きは朝廷の予想をはるかに上回る素早いものでした。幕府の素早い動きに慌てた上皇方は各地の防衛ラインを突破されてしまいます。
後鳥羽上皇は軍勢を京都の宇治川に展開して幕府軍を防ごうとしますが勢いと数に勝る幕府軍に対しなすすべがありません。宇治川の戦いで上皇軍を打ち破った北条泰時率いる幕府軍は京都を占領。承久の乱は幕府の圧勝で幕を閉じたのです。
承久の乱の影響
承久の乱に勝利した幕府は朝廷に対して厳しい態度で臨みます。上皇方についた貴族や武士たちの荘園を没収するだけにとどまりませんでした。幕府は京都で朝廷の監視にあたる六波羅探題の設置や事件の首謀者である後鳥羽上皇ら三上皇の配流、現天皇である仲恭天皇の退位など厳しい措置を行ったのです。
幕府による戦後処理
京都を占領し後鳥羽上皇を屈服させた幕府は戦後処理をはじめました。事件の首謀者である後鳥羽上皇は所有していたすべての荘園を失い、山陰の隠岐へ島流しとなりました。後鳥羽上皇に加担した順徳上皇は越後の佐渡島へ島流し。直接のかかわりはないものの、自分だけ無罪とはいえないとして土御門上皇が土佐へ配流されました。
天皇や上皇が自発的にではなく幕府によって島流しにされるのは承久の乱と鎌倉幕府末期の後醍醐天皇の例があるだけです。上皇方についた武士たちのほとんどが処刑され領地を没収されました。
戦いの後、京都には六波羅探題が設置されます。六波羅探題は朝廷や西日本の動きを監視。幕府軍を指揮した北条泰時が六波羅探題として京都ににらみを利かせます。また、戦いに勝った武士たちは恩賞として地頭に任命されました。
これにより今まで東日本中心だった幕府の支配は西日本も含む全国各地に拡大します。承久の乱以後も公武二元支配は継続しますが、明らかに幕府主導の関係に変化していきました。
御成敗式目の制定
承久の乱後、戦いを主導した北条義時・北条泰時の権威が高まります。1224年に執権となった北条泰時は理想の武士の世をつくるため法律を整備しました。それが、御成敗式目です。
御成敗式目は頼朝以来の先例と武家社会の慣習・道徳である道理を重んじました。御成敗式目の目的は各地で起きる御家人や荘園領主の争いを公平に裁く基準を示すことです。御成敗式目では守護や地頭の任務や権限、領地の支配や相続、重罪人の処罰などを定めました。
泰時が制定した御成敗式目は以後、武士にとって基本の法律として生き続けます。その一方で泰時は朝廷が出す法令や荘園領主が定める法令を無視することはありませんでした。御成敗式目はあくまで武士の法律。公武二元支配を尊重したのです。北条泰時は連署や評定衆といった役職を整備し執権を中心とした政治システムを整え、幕府の支配をしっかりと固めました。
承久の乱は鎌倉幕府のピンチをチャンスに変える戦いだった
鎌倉幕府がそれまで絶対的な存在とされてきた天皇や上皇と正面切って戦って勝利を収めたことは日本の歴史に大きな影響を与えました。鎌倉武士が承久の乱で見せた団結力は天皇や上皇の予想をはるかに上回るものだったのです。承久の乱は鎌倉幕府滅亡のピンチだったのですが、北条氏は幕府の力を強めるチャンスに変化させ幕府の力を強めました。
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