日本の歴史明治

度重なる不幸や貧困の中、短くも鮮烈に生きた明治の女流作家「樋口一葉」

2004年11月、日本の紙幣がリニューアルした時、皆さんは率直にどう感じられましたか?たぶん昔の偉人であろうおじさん達以外に、なぜか一人の若い女性が肖像画になっていることに不思議な感覚を持ちませんでしたか?実は新しい五千円札に印刷された肖像画の人物こそ、今回ご紹介させて頂く「樋口一葉」なのです。今でこそ女流作家と呼ばれる人たちがたくさん活躍している時代ですが、当時はほぼ男性ばかりが占めていた明治時代の文壇に、鮮烈な光を放ったのが樋口一葉なのです。金子みすゞや与謝野晶子といった女流作家や詩人が活躍するのはもっと後のこと。日本の文学界に女性が活躍する道しるべを作ったのも一葉の功績なのかも知れませんね。彼女がなぜ優れた文学を世に出せたのか?どんな理由があってエネルギッシュに執筆活動を続けることができたのか?彼女の一生を紐解いていきましょう。

才能と環境に恵まれた文学少女の時代

image by PIXTA / 46598665

樋口一葉の父親は、今でいう国家公務員という職業で財政的にも非常に恵まれていたといいます。何不自由なく生まれ、自らの文学的才能を開花させていった一葉。彼女にはもともと素質があったとはいえ、創作に対する熱意や知識は、この頃に育まれていったといえるかも知れません。

早くも才能を発揮した幼少期

一葉が生まれた樋口家は、元々は現在の山梨県の出身でした。江戸時代末に大吉と名乗っていた父、則義(のりよし)が同心から士分株を買い、幕府直参の旗本となったのです。当時は裕福な商人や町人が士分株を買って武士化することが流行しており、実は坂本龍馬の実家も、そうやって郷士身分となった家柄でした。

1872年(明治5年)、一葉は樋口家の次女として生まれました。といっても本名は奈津といい、「一葉」というのはペンネームだったのですね。当時の樋口家は、則義の本業(下級役人)以外にも、不動産業や金融業で財を成していたらしく、奈津の幼少期には経済的にも安定していたようです。彼女の日記にも、この頃が一番幸せだったと書かれていますね。

明治10年、幼くして公立小学校へ入学するものの程なく退学。私立学校へ転入し、学業の成績はとても優秀だったそうです。11歳のとき、私立青海学校小学高等科第4級をなんと首席で卒業。しかしこの時は上級へは進まず退学してしまったそう。実は母のたきが、「女には学問は不要。将来のために家事を身に付けることが第一。」という考えを持っていたからだとか。

奈津の幼い頃は、女の子がするような毬遊びや羽根つきなどは好まず、ひたすら本ばかり読んでいたとも。彼女が近眼だったのは有名な話ですが、この幼少期に目を悪くしたからだと言われていますね。

人生の転換期「萩の舎」への入門

小学校を退学した後、奈津はしばらく和歌を学んだり裁縫を習いに行ったりしていたそうで、特に和歌の才能は素晴らしいものがあったようです。そんな娘の才能や向学心を見抜いた父の則義は、なんとか学を付けさせてやりたいと知人の紹介で歌塾「萩の舎(はぎのや」へ入門させました。

萩の舎は中島歌子が創設し、東京小石川の自宅で開いた私塾でしたが、旧大名家や華族の夫人令嬢が多く学びに来ており、さながら上流階級のサロン的な存在でもあったそうです。そんな環境に気後れせず、奈津はどんどん新しい知識を吸収していったのでした。

奈津が記した萩の舎の稽古と発会についての日記「身のふる衣まきのいち」には、当時の記録が詳細に残されており、その後10年間にわたって40巻余にも及ぶ貴重な文学的史料(樋口一葉日記)となっています。萩の舎での和歌の発会で、最高得点を得たことを記念に書き始めたものらしいですね。

不幸と貧困にあえいだ苦難の時代

image by PIXTA / 47872443

優れた和歌の才能を発揮し、将来を嘱望すらされた奈津でしたが、そんな幸せな生活も長くは続きませんでした。彼女を取り巻く環境は、相次ぐ肉親の不幸によって、彼女をどん底にまで突き落としてしまうのです。

度重なる不幸~兄と父の死~

明治18年、奈津が15歳のとき大蔵省に勤務していた長男泉太郎が肺結核で亡くなります。その悲しみが癒えぬまま、今度は則義が事業の失敗による多額な借金を残したまま2年後に死去。死期の近づいたことを悟った則義は、渋谷三郎に奈津と結婚することを念押ししたそうです。渋谷は、奈津が13歳の頃に知り合った親同士の許嫁でした。

そんな奈津に追い打ちを掛けたのは渋谷の裏切りでした。事業の失敗で樋口家に多額の借金をあったことを理由にし、縁談を一方的に破談にしたのです。このことは奈津に深い傷を残しました。

 

「明治二十二年一葉十八才に―事業は失敗に終わり三月、神田淡路町に転居。失意のうちに七月十二日午後二時病没した。死の近づいた父則義は、妻子の前途を案じ、渋谷三郎となつ(一葉本名)と結婚するように頼んだ。三郎は死期の迫った則義を安心させるために婚約した。九月、なつは芝西応寺町の寅之助の許へ、母とくと一緒に身を寄せた。三郎は没落した樋口家から、間もなく遠去った」

引用元 「現代日本文学全集、樋口一葉年譜」より

 

こうして奈津は、17歳にして家を支えなければならなくなりました。芝に住んでいる次兄虎之助の厄介になったものの、母と折り合いが悪くなり、また別の場所へ転居するという有様。萩の舎で内弟子として住み込みましたが、使用人のような境遇に我慢できずに辞め、それからは裁縫仕事などの内職で食いつないでいくという生活を余儀なくされました。

奈津、小説家を志す

萩の舎でともに学んでいた三宅花圃坪内逍遥の指導のもと、明治21年に書いた小説「藪の鶯」が売れているのを聞いた奈津が、「じゃあ、私もやってみよう!」と志したのは19歳のことでした。

上野の図書館で本を読んでみたり、萩の舎の人たちに蔵書を借りたりして、かれ尾花一もとという習作を手始めに執筆活動を始めました。妹の邦子の友人野々宮きくの紹介で、当時、朝日新聞の小説記者だった半井桃水(なからいとうすい)と知り合ったのもこの頃のこと。半井の厳しい指導を受けつつも、彼に魅かれていく奈津がそこにいました。

奈津が半井に淡い恋心を抱いていることが、日記の端々から伺えるのですね。

 

「恋はあさましきものなりけれ。心を尽くし身を尽くしてなりぬべき仲なればこそあらめ、この恋なるまじきものと、我から定めて猶忘れがたく、ぬばたまの夢のうつつ思ひわずらふらんよ。」

引用元 「樋口一葉日記原文」より

 

まるで平安文学のような表現ですが、ここからも彼女の才女ぶりが伺えます。しかし、恋に苦悩する彼女の心情が伝わってくるというのが、何ともやりきれなさを感じさせますね。それもそのはず。当時は結婚を前提としない交際がタブー視されていたため、半井との恋は周囲から反対されていたからです。

この年、「あし(銭)がない」という貧乏をネタにした洒落で、達磨大師が乗って渡ったという芦の一葉にちなんで「一葉」というペンネームを付けました。

奇跡の14ヶ月

image by PIXTA / 25854932

彼女の24年間というあまりに短い一生の中で、死の直前までの14ヶ月が、作家として最も充実していた時ではなかったでしょうか。あたかも桜の花が一斉に咲き乱れ、そして散り急ぐように、短いと云えども鮮烈な光を放っていたのです。

次のページを読む
1 2
Share:
明石則実