安徳天皇
「尼御前、私をどこへ連れていこうとするのか?」
二位尼
涙を押さえつつ「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛くいとわしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです。波の下にも都がございます。」
引用元 平家物語「先帝身投」より
3-8.ついに平家が滅亡
この壇ノ浦の戦いで平家は完全な敗北を喫しました。総帥の平宗盛は入水したものの死に切れず引き上げられ、わざわざ鎌倉まで引き回された揚げ句に斬首されます。
もちろん平家一門の武士たちもことごとくが討ち死するか、入水するか、捕虜となり、平家が勢力を盛り返すことはもう二度とありませんでした。
清盛の娘であり安徳天皇の母でもあった建礼門院も入水したものの生き残り、のちに出家して洛北の寂光院で安徳天皇と平家一門の菩提を弔うことになるのでした。寂光院には今でも女性を中心として多くの方が参拝に訪れていますね。
4.なぜ源氏が勝利し、平家が滅亡したのか?
壇ノ浦の戦いは源氏の圧勝に終わり、平家は滅亡の憂き目に遭いました。しかしなぜあっけなく平家は敗れたのでしょうか?たしかに単純な兵力差や、水軍の裏切り、潮の変わり目など大きな要素はあったのでしょうが、それだけではなかったような気がします。
4-1.頼みの水軍がほとんど機能しなかったこと
戦いが始まった時点の両軍の船数は、源氏方が800艘、平家方が500艘だったとされています。阿波水軍に裏切られるものの、かなりの善戦はしていたはずです。
しかし敗北したのは、水軍の士気が上がらなかったことが大きな要因だったといえるかも知れません。なぜなら、この段階の平家はもはや滅亡寸前です。ましてや平家から格別の恩顧を受けたわけでもない瀬戸内水軍が本気で戦うことはありません。
今や日の出の勢いの源氏に味方することで、うまく勝ち馬に乗りたい気持ちもあったことでしょう。だから戦いが最高潮を迎えた段階で阿波水軍らが裏切ったのです。船いくさが得意な平家だとしても、頼みの水軍が機能しなければ勝ち目はありません。
4-2.天皇の御座船を守るために兵力が手薄になった
平家方の陣容は、兵士たちが乗る軍船だけではありません。安徳天皇が座上する御座船や、女官らが乗った船もたくさん浮いていたはずです。それらの船は無防備でしたから、護衛のための軍船を随行させねばなりません。
ただでさえ兵力に劣る平家方ですから、そのように兵力を分散させてしまえば戦力が手薄になってしまいます。今生の別れを告げて彦島に残った者たちもたくさんいたそうですが、合戦後に上陸してきた源氏方の兵から凌辱を受けたともいわれていますね。
そのような恥辱を受けまいと、平家と運命を共にするため船に乗った者が大勢いて、結果的に彼女らが足かせになってしまったことは言うまでもありません。
4-3.義経の軍事的才能によるもの
単純に源義経が優れた武将だったから平家方が負けた。ということも言えそうです。義経は従来の枠に捉われない発想の持ち主でしたでしょうし、味方を鼓舞する能力にも長けていたでしょう。
また各地の水軍が続々と源氏へ味方するにあたり、義経はたっぷり時間を掛けてから壇ノ浦へ向かっていますね。これは何事にも行動の速い義経にしては珍しいことです。
初めての海戦にあたって綿密に作戦を練り上げたか、船いくさに慣れた熊野水軍を中心に強力な水軍を編成したのでしょう。いずれにしてもこの期間に、勝利を収めるための行動を取っていたことは確かです。
武士の世を切り開いた平家
平家は滅びましたが、しかしながら日本の歴史を見ていくうえで様々な変革を及ぼしたといえるでしょう。長く続いた摂関政治を終わらせ、武士本位の政治体制を作り上げ、武士が中心となる世の中の基礎を築いたのです。鎌倉幕府が武士本位の社会を構築したといわれていますが、実は平家がその原型を作り上げたのかも知れませんね。いや、実は平家は滅んではいなかったのかも知れません。後世活躍する戦国武将の中でも「先祖が平家だ」と主張する者が大勢いたわけなので。あの織田信長ですら、自分は平家出身だと言っていたくらいですから。
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