3-1.陸地へ逃れられなかった平家
ところで、なぜ平家は陸へ逃げずに彦島に立て籠もろうとしたのでしょうか?なるべく険しい地形に拠点を築いて防衛した方が有利なはずですね。しかし平家はそうしませんでした。いやできなかったという方が正解でしょうか。
実は平氏が都落ちした際に、まず目指したのが九州の大宰府でした。平家の勢力圏であることに変わりはなかったのですが、北九州には去就不明な武士や敵対勢力も多く、油断すれば背後から急襲される恐れもありました。
だからこそ関門海峡に面するする彦島で陣を構えた方が都合が良かったのですね。彦島は海に囲まれていましたから、防備するのに都合が良かったわけです。
しかし屋島の戦いの前後には源範頼がすでに九州へ渡り、とっくに北九州を支配下に置いていました。ということは平家は完全に退路を断たれてしまったということを意味しますね。
3-2.追い詰められた平家軍の戦略とは?
彦島という小島に追い詰められた平家軍。しかし平家軍には確かな勝算がありました。その鍵は「源氏が不慣れな海で戦うこと」だったのです。前回の水島の合戦では、源義仲を海の戦いで破った実績もあります。
さらに主力になる水軍はみんな平家の息がかかったものばかり。その軍船の数は源氏にひけを取るものではありません。
また平家が負けた戦いは、そのすべてが陸上戦でした。屋島の戦いでは干潮を見計らって義経軍が騎馬で突入してきたため敗れたものでしたし、東国武士は元々が騎馬での戦いに慣れていますから「船いくさ」は不慣れなはず。ならば海上戦であれば平家軍の独壇場ともいえるでしょう。
平家軍はそういった自信と計算の元に、彦島には籠らず海上に出て決戦を挑もうとしていました。
3-3.平家軍の誤算
しかし平家軍の思惑とは裏腹に、海上で雌雄を決すべき水軍衆の動きは違っていました。東国出身の三浦水軍は早くから源氏についていたとしても、西国を拠点とする水軍がことごとく平家を裏切ったからです。
平清盛の恩顧を受けていた熊野水軍や河野水軍が平家を裏切り、地元下関の串崎水軍までが平家を見限って勝ち馬に乗ろうとしていました。これは平家にとって大誤算であり、船の数でいえば源氏のほうが圧倒的有利になるのは明らかということになったのです。
しかし平家の戦略とすれば海上に出て戦う。これ一択しかありません。それでも平家方には阿波水軍や松浦党が味方についていたため、まだ勝算はあると考えていたことでしょう。
3-4.壇ノ浦の戦いはどんな戦場だった?
さて、本州と九州を隔てる狭い関門海峡で両軍は対峙しました。凄まじい程の数の軍船が密集し、戦いの火蓋が切られたのです。
平家物語やその他の文献などによれば、狭い海峡の潮の流れによって有利不利があり、午前中は平家が有利だったものの、昼頃から潮目が変わるや源氏が俄然有利となった。とあります。果たしてそれは本当でしょうか?
たしかに関門海峡は潮の流れの速いところですが、両軍合わせて1,300艘もの軍船が入り乱れて戦えるような環境ではありません。また対峙する両軍の相対速度は同じのはずですから、どちらが有利でどちらが不利というのは、あまり考えない方が良いのかも知れません。
ということは、潮流の速さとは関係のないもっと広い海域で戦いが行われたのでは?と考えるのが自然なのです。
こちらの記事もおすすめ
平氏の栄光と没落を描き、琵琶法師が弾き語った『平家物語』についてわかりやすく解説 – Rinto~凛と~
3-5.平家軍の善戦
船いくさに慣れ、潮の流れを熟知していた平家方の方が有利であることは言うまでもありません。いくら源氏方に三浦や熊野といった名だたる水軍が付いていたとしても、知らない海では戦いようがないのです。
いっぽう地元の水軍を味方にしている平家方は、地の利を十分に生かし切ることができますね。優れた操舵技術で序盤は源氏方を圧倒していました。
いずれにしても前半戦は平家軍が有利だったということは、周辺の海域を熟知した平家軍が情報量の多さで源義経軍に対して優位性を保ち、よく戦っていたということになりますね。
3-6.義経軍の反撃はじまる
平家軍有利に進んでいた戦いも、やがて兵力に勝る義経軍が徐々に押し返し始めます。実は義経軍には熊野水軍や河野水軍以外にも、早くから源氏に付き従っていた三浦義澄という武士がいました。
彼は現在の神奈川県三浦を根拠地にする三浦水軍の棟梁でしたが、この戦いで先陣を切り、他の水軍衆には真似できない目覚ましい働きをしたのです。
また船いくさの常識として、船を操る舵取り(いわゆる操舵する人)は絶対に狙ってはいけないというしきたりがありました。しかしそこは絶対に負けられない戦い。義経はわざわざその掟を破ってまで舵取りを執拗に矢で射たのです。
もちろん舵取りは兜も鎧も身に着けてはいないため無防備状態。そこかしこで舵取りを失った平家の船が漂流することになりました。漂流する船は次々に源氏の軍兵の餌食となり、平家は戦力を失っていったのです。
3-7.味方の裏切りと平家軍壊滅
時間の経過と共にますます平家軍にとっては不利となり、ついに敗北を決定づけたのは味方の裏切りでした。
屋島の戦いにおいて、平家方を逃がすため奔走した阿波水軍の田口重能が突如裏切り、義経軍に味方したためでした。屋島で敗れた後、重能の肉親が大勢捕虜となり、源氏への内通を強要されていたからなのです。
頼みの阿波水軍300艘の軍船がすべて義経軍に回ったとなると、もはや勝負は決しました。
敗北を悟った平家の総帥宗盛はじめ平家一門は海に飛び込み自害。他の平家方の武士や女房、侍女たちも同じく入水します。そして幼い安徳天皇も、清盛の妻だった二位尼に抱かれ波間へ消えていったのです。