平安時代日本の歴史

5分でわかる壇ノ浦の戦い!なぜ源氏が勝ち平氏は滅亡した?原因をわかりやすく解説!

2-1.反平家運動と清盛の死

平家に対してまず反旗を翻したのは、後白河法皇の子であった以仁王でした。1180年、平家に反発する者に呼び掛けて挙兵したものの、力及ばず宇治平等院の戦いで討ち死に。その志は潰えたかのように見えました。

しかし以仁王が全国に発した令旨(命令文書)は各地の源氏挙兵の呼び水となり、関東の源頼朝はじめ信州の木曽義仲などが次々に挙兵。各地で平家側の軍を破ります。

そうした中、清盛はなんとか状況を打開しようと京都を中心に新体制を敷こうとしますが、そうした矢先に熱病に罹り64歳の生涯を閉じることになりました。

三男の宗盛が跡を継ぎますが平家政権の動揺は止まらず、その後の倶利伽羅峠の戦いで味方が壊滅的敗北を喫するに及び、平家の都落ちは決定的となったのでした。

2-2.平家の都落ち

いっぽう北陸の倶利伽羅峠で平家軍を一方的に破った木曽義仲は、素早い進軍であっという間に京都近郊まで達し、平家は慌てふためいて京都を脱出します。まだ幼い安徳天皇を擁して西国を指して落ち延びていったのですね。

昨日まで栄華を誇っていたにもかかわらず、もはや敗残の姿を晒すのみでした。

さらに平家にとって大誤算だったのは、後白河法皇も共に落ち延びるはずだったのが知らぬ間に法皇は脱出しており、逆に木曽義仲に対して「平家追討令」を与えてしまったのです。こうして平家は賊軍となってしまいました。

しかし都へ入った義仲は、当初こそ「朝日将軍」と呼ばれて有頂天だったものの、すぐにその化けの皮が剥がれます。義仲軍は高圧的な態度で都人にあたったため、まったくその支持を得られなかったのです。

2-3.西国での勢力回復に努める平家

いったんは都を捨てて西国へ落ち延びた平家でしたが、瀬戸内海を中心に勢力を盛り返しつつありました。現在でも厳島神社や屋島など平家の遺跡が多く残るこの地域を根拠地とし、ひたすら京都を奪還するために力を蓄えていたのです。

いっぽう木曽義仲は都に進出したとはいえ、その軍勢の評判はすこぶる悪く、人々の反感を買っていました。後白河法皇はそんな状況をみて「義仲ではあまりに心もとない」と、義仲を見限る算段に出ました。

後白河法皇は密かに策謀を巡らして、まだ東国にいた源頼朝と手を結びます。そうとは知らない義仲は「さっさと平家を討滅せよ!」と尻を叩かれて、大慌てで中国地方へ出陣していきました。

2-4.源義仲の最期

1183年11月、義仲は現在の岡山県倉敷市にあたる水島へ出陣。いっぽう四国の屋島を本拠地としていた平家軍は、源氏を四国へ渡らせてなるものかと先制攻撃を掛けてきたのです。

海上の戦いに慣れた平家方は、船を相互に組み合わせて陣を作り、一方的に義仲軍を打ち崩します。かたや義仲軍は海で戦ったことがない者ばかり。あっという間に蹴散らされ、逃げ惑うしかありませんでした。

ほうほうのていで京都へ逃げ帰ってきた義仲に衝撃的な事実が知らされます。義仲から平家追討の職を剥奪し、あらためて東国の頼朝へ与えるというのです。

義仲は慌てて平家と講和を結ぼうとしますが時すでに遅く、東国から押し寄せた頼朝の弟範頼の大軍の前に大敗。あっけない最期を遂げるのでした。

2-5.一の谷の戦い

源氏が同士討ちをしていた頃、平家はようやく勢力を盛り返して屋島(香川県)と彦島(山口県)に根拠地を築き、さらには現在の神戸市付近に上陸して京都の奪還をうかがっていました。

しかし、ここで源氏側に稀代の天才が現れるのです。それが頼朝のもう一人の弟「源義経」でした。

平家追討の命を受けた義経は、戦場が東西に広く海と山に挟まれた地形であることに注目します。「平家はきっと東方向にのみ集中して、背後はまったく手薄なはず。」

そして東から攻める源範頼軍と共同作戦を取り、防備が手薄な背後の山上から平家軍に襲い掛かったのです。

「一の谷の逆落とし」ともいわれていますが、思いもよらぬ背後からの攻撃に平家軍は浮足立ち、次々と将兵が討たれていきました。敗北を悟った平家の総帥宗盛は兵を引き上げ、念願の京都奪還は露と消えてしまったのでした。

2-6.屋島の戦いでも平家軍が敗北

一の谷の合戦で敗れた平家は、再び屋島へ戻って戦力の立て直しを図ろうとしました。しかし義経らの追撃は急で、防戦の準備が整わないうちに次の合戦を迎えることとなるのです。

屋島の戦いでは、再び義経の軍事的才能がいかんなく発揮されました。敵に察知されぬよう暴風雨の中を四国へ渡り、平家軍が完全に油断している中で屋島を攻略したのです。

平家軍の執拗な反撃も撃退し、平家はついに屋島をあきらめました。やがて行き場をなくした平家は、最後の拠点である彦島へと撤退していくのです。

3.源平最後の戦い~壇ノ浦合戦~

image by PIXTA / 43721676

義経軍の攻撃によって西国の拠点である屋島を失った平家軍。残る本拠地は彦島(現在の山口県下関市)のみ。しかし平家といえば西国全域に勢力を誇っていたはず。なぜ彦島という小島に押し込まれねばならなかったのか?なぜわざわざ海上で戦いを挑んだのか?いよいよ最後の謎を解き明かしていきたいと思います。

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明石則実