「国際連盟」とは?なぜ崩壊した?失敗の要因をわかりやすく解説
国際連盟の特徴と致命的欠陥
image by iStockphoto
ベルサイユ興和会議でその設立が論じられた平和機関は、1920年に正式に発足しましたが、アメリカは加盟しないままのスタートとなったのです。国際連盟には、現在の国際連合と同様に、さまざまな下部機関も作られ、国際秩序の維持に向けて走り出しました。
しかし、この国際連盟には今の国際連合と違う致命的な欠陥があったのです。
総会での全会一致が原則_議決ができない!
国際連盟の決議は、総会での全会一致が原則になっており、一国でも反対すれば、機関決定はできませんでした。また、現在の国際連合の安全保障理事会の原形となる理事会はありましたが、現在の安全保障理事会のような強い権限はなく、基本が全会一致になっているため、何も決められなかったのです。そのため、軍縮会議も、国際連盟とは関係なく、個別の特定国が集まって行われました。
軍事力を持たない国際連盟_実質的な制裁ができなかった
現在の国際連合には各国から派遣された国連軍(或いは多国籍軍)があり、紛争ではPKO、PKFなどで軍隊が派遣されています。しかし、国際連盟では軍事力を持っておらず、紛争が起きてもそれを軍事力で制裁することができませんでした。従って、満州事変などで日本が強引に軍事力で侵略した時も、それを制裁することはできなかったのです。
国際連盟の崩壊への第一段階_1920年代の国際平和主義と軍縮会議
image by iStockphoto
1920年代の軍縮会議は、国際連盟に加盟していないアメリカやイギリスなどが主導しました。当時、中国に進出機会を狙っていたアメリカは、すでに中国への進出を始めていた日本の拡大を阻止しようと軍縮会議を開いたのです。
軍縮会議は日本の拡張抑制に米英が画策
軍縮の標的は日本になり、特に日本海軍の希望した軍艦の造船や、中国での軍事進出を抑えられることになったのです。アメリカは、この頃からモンロー主義の枠外になる中国への進出を画策していました。そのため、日本の中国への進出には特に警戒していたのです。イギリスも、第一次世界大戦後には、日本の中国進出のきっかけになった日英同盟を破棄していいます。
当時の日本は、中国東北部の満州に進出し、関東軍を送り込んで実質的に満州を植民地にしようとしていたのです。
フランス・ベルギーのドイツいじめとナチスの台頭
一方、第一次世界大戦の敗戦国であったドイツは、当初、国際連盟への加盟も認められず、過大な戦争賠償金の支払いに苦しみました。賠償金の支払いが遅れたことから、フランスやベルギーは、1923年にドイツのルール地方を占領しました。賠償金についてはアメリカがとりなしてくれましたが、景気が悪化するとともに、急激なハイパーインフレ(急激な物価上昇)がドイツを襲い、ドイツ国民の生活は非常に苦しくなり、不満が蓄積したのです。
このドイツ国民の不満を利用して台頭したのがヒトラー率いるナチスでした。不景気やインフレを先勝国であるフランスやイギリスのせいと吹聴し、国民の人気を集めてついにドイツの政権を手に入れたのです。そして、ヒトラーは、国民の目を国外に目を向けさせ、絶対的な権力を確立し、軍拡、領土拡張に走り始めます。