ドイツナチスドイツ

ベルリンの壁はどうして建てられた?ベルリンの壁の歴史と崩壊した理由を解説

壁が崩れ落ちた時 1989年ベルリンの壁崩壊までの流れ

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こうして出来上がったベルリンの壁ですが、この壁は意外や意外わずか28年で脆くも崩れ去ってしまいます。一体何があったのでしょうか?

次はそんなベルリンの壁の崩壊までを見てみましょう。

ソ連のペレストロイカ

冷戦が始まってから40年が経過した1985年。この年になるとかつてアメリカと肩を並べるほどの勢力を持っていたソ連も徐々に弱体化。なんと中東のアフガニスタンにも苦戦するという東側諸国のリーダーとして情け無いレベルとなっていました。

「このままではダメだ‼︎ソ連をなんとかしないと!」そう感じていた当時就任したばかりだったソ連のリーダーであるゴルバチョフレストロイカという「これまでのガチガチな独裁状態から緩やかな民主主義にしていこうぜ」みたいな改革を行なっていきます。ちなみにペレストロイカは再構築のロシア語の意味だそうです。

こうして独裁からどんどん民主主義方面に改革していくソ連。しかし、その改革が東ドイツにとんでもない影響を与えてしまったのです。

東欧に吹く自由の風 東欧革命の始まり

おそらくペレストロイカを発表した時に東側諸国の国々らは「え?親分であるソ連が民主主義になろうとしている?」と思ったことでしょう。いや待て待て待て、そんなことされてはこれまで抑圧してきた民主化運動が再び活発になってしまうじゃありませんか。この動きを見て東ヨーロッパの東側諸国特に東ドイツがこのペレストロイカに真っ向から対峙します。でもしかし、「ソ連が民主化しているなら俺らもやれるで!」と希望を持った民衆はそんな動きなんて知らんぷり。民主化の動きは止まらず1989年の初頭にはポーランドとかハンガリーなどが民主化し、東欧革命が勃発しました。

ヨーロッパのピクニック

東ヨーロッパの国々がどんどん民主化していく中で東ドイツのホーネッカーはまだまだ独裁体制を維持しようとします。理由は簡単です。もし民主化したらベルリンの壁を越えようとした人に殺害命令を出したことが理由で自分の身が危なくなってしまうからでした。しかし、こんなホーネッカーの願いは届かずついには6月にハンガリーと西側諸国よりの中立国であるオーストリアの国境が解放。かつてチャーチル首相が発言した鉄のカーテンがついに崩壊したのでした。これを聞いた東ドイツ国民は大喜び。これで普通に西側諸国に脱出できて自由な生活が待っていると夏に3000人の人々がハンガリー経由で西ドイツに亡命しました。

こうなったらもはやどうすることもできません。国民が逃げ出したりしてもう後がなくなったホーネッカーは最後の切り札ソ連の手助けにすがりますがゴルバチョフはこれを拒否。見事に見捨てられ最終的には失脚し、東ドイツは一気に民主化へと向かっていくのです。

東ドイツの国境自由化

こうしてホーネッカーが失脚して一気に民主化の波が押し寄せた東ドイツ。後を継いだエゴン・クレンツは民主化を求めるデモと国民の大量亡命にてんてこ舞いになってしまい、ついには東ドイツは崩壊の危機に瀕してしまいました。

もう何も考えることができなくなってしまったクレンツさんはついに西側諸国に条件付きで行ける法案を発表します。この法案がもし可決されるとつまりベルリンの壁の意義がなくなってしまうことになってしまいますね。しかし、実はこれには裏があり西側諸国に行けるのは年間30日以内、さらに国がNOサインを出したら出国できないというあくまでも東ドイツの面目は保った状態で国旗の自由化をしようとしていました。こうすることによってベルリンの壁はまだ必要とされ、さらに東ドイツも崩壊の危機から抜け出せる一石二鳥のメリットが生まれるようになったのです。

これで一件落着…そうなるかと思いきや実はそのプランは思いっきりとある一人の外交官によってパーとなってしまったのでした。

運命の記者会見

1989年11月9日、この日ついに西側諸国に行けるようになる改訂版の法案が国民に向けて発表されることになります。でも元々この法案の発表は元々11月10日に発表される予定でした。しかし、クレンツからすればこの法案はあくまでも条件的。国境を越えるには国境のチェックポイントを通らなければいけないという感じでした。だから9日ではなく1日遅れの10日にして国境付近の警備を万端にしたかったのです。

でも、この法案が可決されたのは混乱のさなかでの出来事。当時、報道官として就任したばかりであったシャボフスキーはこの法案が一体どのような内容のものなのかは知りもしませんでした。

困りに困ったまま、よくわからず会見を開くシャボフスキー。国境のチェックポイントを通過すれば誰でも出国できるようになったと淡々と話していきます。そしてついに壁が壊れるようになる決定的な瞬間が訪れました。とある一人の記者が「あの〜いつその法律は施行されるのですか?」と質問するとシャボフスキーはなんと「今からです」と見事に言い放ちました。

いや待ってください。この法案は11月10日に施行されるものだったものでしょう?それなのに彼は9日からと言い放ってしまったのです。

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