三国時代・三国志中国の歴史

三国志の主役「諸葛亮」は何が凄かった?多才で最高の参謀孔明をわかりやすく解説

諸葛亮に対抗心を燃やした周瑜

呉の大将軍であった周瑜は、非常にプライドの高い将軍であり、軍師としてその奇才ぶりが知られていた諸葛亮にライバル心を燃やし、何かにつけて諸葛亮に難癖をつけます。しかし、呉の策士であり、魏との対抗策を劉備に説いて蜀の諸葛亮とも交流があった魯粛がとりなしていました。周瑜が、矢が足りないと言いますと、諸葛亮はわらを大量に積んだ船を魏の曹操軍の外側を往復させて見せます。曹操軍は敵襲と勘違いして船に大量の矢を放ちました。その結果、船のわらにはには何万も矢が突き刺さり、諸葛亮は周瑜にその矢を渡したのです。しかし、周瑜は喜ぶよりもますます諸葛亮を警戒するようになります。周瑜は、赤壁の戦いに勝った後にも何度も諸葛亮に煮え湯を飲まされ、せっかく手に入れた荊州を手放してしまいます。しかし、その荊州は、守っていた関羽が呉の魯粛の策にはまって、再び呉の手に落ちてしまうのです。

風を自在に操った諸葛亮の戦略

赤壁の戦いのクライマックスは、海戦に不馴れな曹操軍が、軍船を互いに綱で結んで揺れないようにしていた様子を見た呉蜀同盟軍が、火攻めで曹操軍を掃討するところです。火攻めをするためには曹操軍に近寄らないと火矢を放てません。そのため、周瑜は将軍の1人である黄蓋の進言により、黄蓋を叱ってむち打ちの刑に処して、周瑜を恨んでいるように見せかけます。その後、黄蓋は曹操に内通を申し出て曹操軍に味方するように見せかけます

しかし、曹操軍を攻めるには、もう一つ問題がありました。赤壁の戦いのあった10月は、軍の岸側から河面に向けて吹いているため、火矢を放っても燃え拡がらないのです。諸葛亮はそれでも、たまに逆向きの東南の風が吹くこととその兆候を調べていました。諸葛亮は、祭壇を作り、祈祷をする振りをして主力になる呉軍を鼓舞します。そうしますと、ついに東南の風が吹き出しました。

周瑜は、諸葛亮が風神さえ支配するといぶかりますが、すぐに呉の将軍黄蓋は船に火矢を用意して曹操軍に近寄りました。曹操は内通した黄蓋が来たと喜びますが、彼の喜びもつかの間、火矢が曹操軍の軍船に打ち込まれ、曹操の大船団は火に包まれ、曹操軍は逃げ惑うばかりになります。そこに、呉軍を中心とした呉蜀同盟軍が攻め込んだため、曹操軍は大敗北を喫して、兵は散り散りに逃げてしまったのです。曹操も、魏の都に逃げ帰ろうとします。

諸葛亮の読みを裏切った関羽の義侠心と油断

赤壁の戦いで大敗した曹操は、少数の部下と逃げますが、その途中に華容道というところで関羽が待ち受けていました。曹操には絶体絶命のピンチです。

しかし、関羽は、かつて曹操に助けられた恩義を忘れていませんでした。関羽は、曹操に大変面倒を見てもらい、家臣になるように説得されたにも関わらず、劉備の居所がわかると、曹操からもらった屋敷などを返上して劉備のもとにはせ参じたのです。曹操の家臣たちは、関羽を後々のために討つことを進言しますが、曹操は許しませんでした。

関羽は、情に厚い武将であり、かつて助けられた曹操への恩義を忘れておらず、義侠心から諸葛亮の命令に反して、結局曹操を通らせてしまいます。ここで、関羽が諸葛亮の命令通りに曹操を討っていれば歴史は変わっていたでしょう。

しかし、関羽が諸葛亮の期待を裏切ったのは、これだけでありませんでした。諸葛亮が周瑜との知恵比べに勝ち、手に入れた荊州を関羽に守らせます。劉備陣営でも傑出した豪傑である関羽を荊州の守りにつけたのです。関羽がいるために、呉も魏も簡単に刑州に手を出すことができませんでした。

関羽の失態によって諸葛亮の第一幕は終わる

image by iStockphoto

呉の魯粛は、計略を張り巡らせ、魏に荊州に向けて出兵するよう持ち掛けます。魏の軍勢は、最初関羽に蹴散らされ、敗北して後退していき、何度も攻撃を仕掛けては退却するのです。勝ちに乗った関羽は、荊州の守りを薄くして魏討伐に出てしまいます。諸葛亮からは、絶対に荊州を出てはいけないと言われていた関羽ですが、再び諸葛亮の命令に背いてしまいました。魏の軍勢を深追いした関羽は、荊州が呉の手に落ち、魏と呉に挟まれる形になることに気がつきますが、すでに遅すぎました。関羽は、結局息子の関平とともに魏軍に斬首されてしまうのです。

結局、蜀は荊州を失ってしまいますが、それ以上に蜀の諸葛亮を苦しめたのが、劉備の暴走でした。義弟の関羽を呉の計略で失った劉備の怒りは収まらず、ついに諸葛亮の止めるのも聴かずに、呉討伐に出てしまうのです。結局、劉備は呉との戦いに敗れて、そのまま憤死してしまいます。ここに、諸葛亮の第一幕は終わりを告げるのです。

劉備玄徳死後にも諸葛亮の忠義

image by PIXTA / 1420452

本来、劉備と諸葛亮の最終目標は後漢王朝を滅ぼした魏を討ち、漢王朝を再興することでしたが、劉備は関羽を騙し討ちにした呉討伐に走ってしまい、落命してしまいます。そのため、諸葛亮の生涯目標も後退せざるを得ませんでした。しかし、諸葛亮は、劉備と約束した魏の国を討つことは生涯忘れてはいません。まずは、劉備の無理な出兵によって傷ついた蜀の国の建て直しに奔走します。生涯清貧に暮らし、国内の殖産を図り、背後の西南諸国の討伐も行いました。劉備に比べると凡庸な2代目皇帝劉禅を支えながら、着々と呉の財政を建て直し、ついに15年をかけて魏討伐にこぎ着けたのです。

すべての人が泣いた「出師の表」に見る諸葛亮の覚悟

諸葛亮は、皇帝劉禅に「出師の表」を提出し、魏討伐に向かいます。この「出師の表」には、劉備の志を継いで出兵する必要性、諸葛亮の覚悟が述べられていました。

どれ程の覚悟を持って準備したこと、諸葛亮の忠義と覚悟が具体的に語られ、読む人の心を揺さぶったのです。ぜひ、一度三国志にある「出師の表」は読まれることをおすすめします。今の日本に薄らいだ一途な心意気、誤りを正す心意気というものが伝わってくるのです。

次のページを読む
1 2 3
Share: