ヨーロッパの歴史

第二次世界大戦はどう推移していったか~戦争の行方を決めた激戦7選~

Dデイ~ノルマンディー上陸作戦~

6/4、圧倒的な戦力を持つ連合軍は陸海空から大規模な上陸作戦をノルマンディーで開始しました。連合軍の欺瞞工作と先入観によって上陸場所を見誤ったドイツ軍はあっという間に粉砕されます。それでも局地的には連合軍を押し返すほど勇戦したドイツ軍でしたが、多勢に無勢。どんどんと内陸部へ圧迫されていきました。

パリが放棄され、「ファレーズポケット」と呼ばれる包囲戦でドイツ軍が壊滅すると、西部戦線ではもはや勝負あり。ドイツ国境付近まで撤退せざるを得なくなったのです。こうしてフランスは解放されました。

西のDデイ~バグラチオン作戦~

連合軍のノルマンディー上陸からわずか二週間後、今度は東のソ連軍が大攻勢を開始しました。「バグラチオン作戦」と名付けられたその攻勢は、対峙するドイツ中央軍集団に対して周到な準備と欺瞞工作と時間差をもって行われました。バグラチオンとは、ナポレオン率いるフランス軍を撃破したロシアの英雄の名だったのですが、やはりソ連軍の気合の入り方がわかりますよね。

大攻勢を受けたドイツ軍中央軍集団は木っ端みじんに崩壊。わずか二週間で40万人もの大損害を被ることに。その後もソ連軍の進撃は止まらず、ついにはソ連領内からドイツ軍を叩き出すことに成功したのでした。

その後、わずか1年足らずでナチスドイツは降伏したことを考えれば、ソ連という国家の底力を感じますね。

#6 戦争の行方を決めた激戦その6.マリアナ諸島の攻防

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再び太平洋へ目を転じれば、1944年に至る頃には既に日本軍の退勢も明らかになっており、いよいよアメリカは「飛び石作戦」によって島伝いに確実に日本本土を目指していました。圧倒的戦力を持つアメリカ軍に対して日本軍は必死の抵抗を見せますが、補給もままならない孤島の戦場では次々に部隊が玉砕(全滅)し、いつしか絶対国防圏(このラインより絶対に敵は入らせないという日本側の呼称)にもアメリカ軍は迫っていたのでした。

マリアナ沖海戦

日本側はサイパン島を含むマリアナ諸島の重要性を理解していました。ここを取られると日本本土までは遮るものがありません。そのため陸軍を中心に大部隊を配置していたのです。しかしアメリカ海軍の大艦隊が押し寄せるとなると抵抗すらままならない。そこで日本の連合艦隊を繰り出してアメリカ艦隊を叩こうということになりました。

しかし、いざ海戦が始まるや完全に一方的な展開となりました。アメリカ側の余裕があり優秀な兵器群と歴戦の空母部隊によって日本側はまたしても大敗北を喫したのです。既に熟練パイロットの多くを失っていた日本の航空部隊は、再建すらままならぬうちに戦いを挑み、まったく歯が立たずに敗退することになりました。

サイパン島守備隊の玉砕

日本の連合艦隊が敗れ去った後、それぞれの島に残された守備隊はまさに最後の一兵になるまで戦いました。山中深くに潜んで抵抗し、アメリカ軍に対して多大な犠牲を強いたのですが、戦力差は埋めようもなく、サイパン、グアム、そしてテニアンと次々に玉砕していったのです。くしくもサイパン島守備隊司令官は、先ほど解説したミッドウェー海戦で艦隊を指揮していた南雲中将その人だったのでした。

日本軍が全滅した後、アメリカ軍は広大な航空基地を設営しました。そしてここに日本本土を空襲するためにB29を進出させようとしていたのです。まさに日本は喉元に刃を突き付けられた形となったのでした。

#7 戦争の行方を決めた激戦その7.沖縄攻防戦

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この戦いは、戦争の行方を左右した戦いであっただけでなく、戦後の沖縄の行く末をも左右した戦いでした。第二次世界大戦末期、マリアナ諸島に続いてフィリピンまでをも失陥した日本軍は、なおも戦争を継続しようとし、本土決戦の前哨戦として沖縄を守ろうとしていたのです。

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明石則実