幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争の最終決戦「箱館戦争(五稜郭の戦い)」をわかりやすく解説

蝦夷共和国樹立と新政府の反応

1868年12月15日、旧幕府軍は箱館で新政権を樹立します。選挙によって榎本武揚が総裁に選ばれました。榎本らは「箱館政権(通称、蝦夷共和国)を建国します。その上で、榎本は新政府に旧幕臣による蝦夷地開拓を求める嘆願書を出しました。しかし、新政府は榎本の嘆願書を拒否し、箱館攻撃を決定します。

新政府は松前藩兵・弘前藩兵を中心とする8000の兵が青森に集結させ箱館攻撃を準備しました。また、新政府は不足する海軍力を補うため、幕府がアメリカから買い入れていた最新鋭の装甲艦「甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン)を入手。青森へと向かわせました。雪が解けるのを待って本格的に蝦夷地を攻撃しようと考えたのです。

宮古湾海戦~甲鉄奪取計画~

開陽丸を失い、制海権を失いつつあった旧幕府軍は最新鋭艦の甲鉄奪取を狙っていました。甲鉄は最新鋭の大砲であるアームストロング砲や最新兵器のガトリング砲も装備していました。旧幕府側からすれば喉から手が出るほど欲しい船です。

そんな中、甲鉄が宮古湾に入港するとの情報が旧幕府軍のもとに入りました。情報を得た旧幕府側は甲鉄奪取作戦を決行。1869年3月20日、土方歳三ら100名を乗せた軍艦「回天」と「蟠龍」「高雄」を出撃させました。

3月23日、各艦は山田湾で終結するはずでしたが、蟠龍が現れません。しかも、高雄は故障のため速度が半分になっていました。このままではタイミングを失うと考えた土方らは回天のみで作戦を決行することとします。

3月25日、回天はアメリカ国旗を掲げつつ甲鉄に接近。直前で旗を日章旗に取り換えるとそのまま甲鉄に接舷して切り込みました。回天は甲鉄の横っ腹に艦首を突っ込んだため、乗り移る回天の兵は甲鉄の乗組員から集中砲火を浴びます。

加えて、甲鉄に装備されていた最新鋭兵器のガトリング砲(機関銃のようなもの)によって旧幕府側は大ダメージを負いました。結局、土方らは甲鉄の奪取をあきらめざるを得なかったのです。

箱館湾海戦~旧幕府艦隊、必死の抵抗~

1869年4月、青森に集結していた新政府軍は満を持して津軽海峡を渡って北海道に上陸。新政府軍と旧幕府軍は江差・松前・木古内などで激しく衝突します。旧幕府軍は激しく抵抗しますが、数に勝る新政府軍が徐々に優勢になっていきました。

5月、新政府海軍は箱館湾に突入、旧幕府軍と海戦となりました。箱館湾海戦です。旧幕府軍は回天を中心とする3隻、新政府軍は甲鉄を旗艦とする6隻。海戦序盤で旧幕府軍は3隻の1隻が新政府軍に拿捕され、圧倒的に不利な状況となります。

回天と蟠龍の2隻はよく戦いましたが、ついに回天は被弾部に被弾。あえて、弁天台場の付近に座礁して浮き砲台として抵抗をつづけました。6月、残る蟠龍が新政府軍の軍艦1隻を炎上させますが抵抗もここまで。蟠龍も回天と同じく座礁してしまいました。海戦の決着により、箱館戦争は陸上での最終決戦へと移行します。

土方の戦死と榎本降伏

箱館湾海戦と並行して、新政府軍は箱館市街地への突入をはかりました。1869年5月、新政府軍は函館山の裏手から山頂へと進出。海に面した断崖絶壁をよじ登っての攻撃に旧幕府軍は驚いて退却します。旧幕府軍は函館山奪還を目指しますが山頂からの攻撃により失敗。これにより、旧幕府軍は箱館市街地を失いました。

土方らは孤立してしまった函館山麓にある弁天台場を救うため手勢を率いて出陣。しかし、新政府軍に阻まれます。そして、関所を設けていた一本木という場所の近くで土方は狙撃され戦死しました。

箱館湾と市街地を制圧した新政府軍は、海上の甲鉄から五稜郭に向けて艦砲射撃を行います。勝敗はすでに決したと考えた榎本武揚はオランダ留学時に手に入れた『海律全書』を新政府軍の司令官の一人、黒田清隆に届けさせました。日本の発展のために、国際法の知識が必要だと考えてのことでした。1869年5月18日、榎本はついに新政府軍に降伏。ここに箱館戦争は終結しました。

五稜郭祭~箱館戦争は今も地元の人たちによって伝えられる~

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毎年5月になると、函館市では五稜郭祭というイベントが開催されます。昭和45年から続けられているもので、箱館戦争当時の新政府軍・旧幕府軍の衣装をまとった人々によるパレードが見どころ。戊辰戦争の最終決戦にして、新政府による新しい支配の幕開けともなった箱館戦争の歴史は、いまも地元の人たちによって語り継がれています。

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