もともと投下先には京都が入っていた!?
当初、原爆投下の候補地として京都も入っていました。
軍事施設のほとんどない京都市域を原爆投下の最優先候補にするというのがアメリカ軍部の要求で、京都駅西の梅小路操車場が投下目標地とされていました。
ア、1945年5月12日:京都・広島・横浜・小倉
イ、1945年5月28日:京都・広島・新潟(横浜と小倉は外される)
ウ、1945年7月21日:京都・広島・小倉・新潟
エ、1945年7月21日:原子爆弾以外の通常型爆弾および焼夷弾による攻撃目標は、人口順に180の都市がリストアップされ、作戦上東京の皇居と京都は除外。横浜・神戸・川崎・名古屋・東京・大阪・尼崎と北方の17都市は、硫黄島の基地が使えるようになるまで除外された。また夜間および悪天候下の爆撃禁止は15都市であり、長崎もこれに属していた。
オ、1945年7月22日:広島・小倉・長崎・新潟と決定し、京都が目標から外された。出典:『原爆はなぜ落とされたのか』長崎における被爆体験と対核防護の勧め 加藤高明http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/41413
京都は皆さんご存知の通り、古来から天皇制の文化的拠点となっています。日本古来の文化遺産の破壊を惜しんだという説(ウォーナー伝説)がありました。吉田守男さんという方がこれを批判し、占領した日本をアメリカの世界支配システムに組み込むために投下先から外したのだと主張しましたが、
実際のところは東京大空襲のとき陸軍戦略航空軍の、「皇居はじめ皇室ゆかりの地については標的にしない」という方針があったため、同様の配慮がされたと考えられています。
そしてそのかわりに長崎が候補地に組み込まれます…
広島に原爆投下…そしてその三日後に長崎に原爆が投下される
従来の兵器とは異なる原爆のような恐ろしい核兵器を初使用する場合は、使用後に威力や破壊力のデータを集め投下方法や爆撃機の脱出策も含めて、作戦全体を再検討し、投下の手筈を改善することが軍事常識としてあります。
しかし原爆投下の場合、上記のような手続きがとられず8月6日に人類史上初となる原子爆弾が広島に落とされ、その3日後の8月9日に長崎に二発目が投下されました。
なぜ、二発もの爆弾が落とされなければならなかったのでしょうか?
8月9日の最初の目的地は長崎ではなかった!
8月9日の最初の目標地は北九州市の小倉でした。
広島への投下と同様に通勤時間帯にあわせて午前8時過ぎに小倉の上空付近に来ますが、曇天のために目標地点を視認できず急遽長崎に目標地が変更されました。長崎市の場合の投下先は三菱兵器工場などの軍事拠点ではなく、商業地区の常盤橋が選ばれていました。ただし厚い雲にさえぎられて目標地点を視認できなかったので、実際には午前11時2分に3キロ北の浦上地区に投下されたのです。
異なるタイプの2発の投下がセットになっていた!?
『ポツダム宣言の3日前に、原爆投下命令書が発令されていた!』に記載した原爆投下命令書には、1発目の原爆を投下した後「……準備が完了すれば、直ちに2発目の爆弾を上記の標的に投下せよ」と書かれていました。
つまりタイプの異なるウラニウム型爆弾1発とプルトニウム型爆弾1発の投下がセットとなっていたのです 。
なぜ軍事拠点ではなく民間人居住地区を標的にし、防空壕に退避するチャンスを与えずに原爆を投下したのでしょうか?
なぜこんな非人道的な兵器を2発でワンセ ットとしてしまったのか。それはウラニウム型、プルトニウム型のどちらの方が軍事的価値が高いのかを、実際に使ってみることで検証しようとしたからだと言われています。
戦場で使用すれば、多様な世代の人間の健康に原爆はどのような影響を与えるのかについて精度の高い追跡調査を行うこともできるからです。 軍事的価値を測定し、より質の高い核兵器の開発に役立てていくうえでの貴重な基礎データとなったのでしょう。
言葉にするのも辛いですが、人体実験的性質もあったと思われます。
標的は庶民密集地―犠牲者の9割以上は民間人でした
庶民の住む町の周辺で原爆が投下されため、犠牲者の圧倒的多数が軍人ではなく、民間人でした。
原爆投下から5か月後の1945年末の死亡者データによると、広島・長崎をあわせて21万人。そのうち軍人は1割程度の2万人、残る9割が民間人だと推定されています。
長崎には多数の軍需工場があったものの軍事基地の比重は広島よりも少ないので、爆死者中の軍人比率が広島より高かったとは考えられません。
いずれにせよ、両市ともに軍人は爆死者数の1割以下で、爆死者の9割以上は民間人であったことは間違いありません。
日本政府は、原爆投下に対する抗議の声明文を出しました
8月15日、日本で唯一の放送局だった社団法人NHK(日本放送協会)から昭和天皇自らの玉音放送により、日本は終戦を迎えました。
しかし終戦前、非人道的な新型爆弾による投下を、日本は黙って認めたわけではありませんでした。9日に投下された翌日、日本政府は「米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文」を米国政府に発しています。