三国時代・三国志中国の歴史

はじめての「三国志」あらすじと心に残る名場面を元塾講師が解説

#5 曹操が天下統一を阻まれた「赤壁の戦い」

中国の北半分をおさめた曹操は徐々に力をつけていた劉備と戦います。劉備は義弟関羽・張飛、参謀の諸葛亮らとともに戦いますが戦力差は圧倒的。戦いに敗れて江夏という地に逃げ込みました。

これで、曹操と正面から戦う戦力を持つのは長江下流を支配していた孫権だけとなりました。曹操は孫権に降伏を迫ります。孫権は父の孫堅、兄の孫策の跡を継いで長江下流域の呉をおさめていました。呉は孫一族が治めていたので孫呉とも呼ばれます。

諸葛亮は孫権と手を組み曹操と戦うため、孫権説得に乗り出しました。赤壁の戦いは名場面の宝庫ですので後ほど詳しく説明します。結果を先に述べると、曹操軍は孫権軍の司令官となった周瑜がしかけた火計で焼き払われて大敗してしまいました。これにより、短期間での天下統一は困難となったのです。

#6 後漢の滅亡と三国の成立

220年に曹操が病で死去すると跡を継いだ曹丕は後漢最後の皇帝である献帝に皇帝の位を譲ることを迫ります。こうして、曹丕は魏の初代皇帝となりました。

その知らせを受けた劉備は蜀で「漢」の皇帝に即位。後漢と区別するために、蜀漢・蜀と呼ばれます。のちに孫権も呉の皇帝を名乗りました。こうして、魏・呉・蜀の三国が並び立つ三国時代となったのです。

諸葛亮や趙雲などは後漢を滅ぼした魏を責めるべきだと主張します。いつもなら、諸葛亮の進言に従う劉備でしたがこの時は違いました。荊州を守る義弟の関羽に大変なことが起こっていたからです。

 

#7 呉・蜀による荊州をめぐる争いと劉備の死

荊州とは長江中流域のことです。当時の中国のど真ん中にあたる地域で、ここを支配したものが天下統一に有利になる重要な場所でした。赤壁の戦いの後、劉備は荊州とその西にある蜀を制圧して一気に勢力を拡大。荊州の守備には義弟の関羽を置き、万全の態勢を整えたつもりでした。

220年に曹操が死ぬと、曹操の子である曹丕は孫権とひそかに手を結び、荊州の分割を約束します。曹操と孫権の挟み撃ちにあった関羽は討ち取られてしまいました。これに激怒したのが劉備です。諸葛亮や古株の武将である趙雲らの説得に耳を貸さず、義弟の敵討ちのため呉に向かいます。

途中、部下の裏切りによってもう一人の義弟である張飛が殺され首が呉に持ち込まれたことで劉備の恨みは倍増しました。戦いは激しいものでしたが、呉の司令官陸遜の作戦によって劉備軍は壊滅。失意の劉備は国境の白帝城でこの世を去りました。

#8 劉備の遺志を果たせ!諸葛亮、渾身の北伐

姓は諸葛、名は亮、字は孔明。本などでは諸葛亮とも諸葛孔明とも呼ばれる人物が『三国志演義』後半の主人公です。諸葛亮は劉備の遺志を継ぎ、蜀による天下統一を志します。諸葛亮は荊州の領有権問題を棚上げにして呉と仲直りして局面を打開。蜀の南部で反抗していた南蛮王孟獲を従わせ、魏への遠征準備を整えました。

227年、諸葛亮は北伐(魏への侵攻作戦)を実行。出発前に皇帝の劉禅(劉備の子)に提出した「出師の表」は名文として有名です。漢文を読める人でしたら、ぜひ、原典を読んでほしいですね。諸葛亮は何度か北伐を実施しますが、圧倒的国力差を覆すことができずことごとく失敗に終わります。最後の戦いとなった五丈原の戦いでは「死せる孔明生ける仲達を走らす」の名言を生みました。

#9 三国時代の終わりと晋の天下統一

魏では諸葛亮と互角に渡り合った司馬懿の力が強まりました。クーデタで実権を握った司馬一族は魏で権力をほしいままにします。

司馬一族は、諸葛亮の死後に国力が衰えた蜀を総攻撃。諸葛亮の跡を継いだ姜維が奮戦しますが、皇帝の劉禅は戦う気持ちが乏しく、敵軍が都に現れると戦わずに降伏してしまいました。

その後、司馬一族は魏を滅ぼして晋を建国。晋は長江を攻め下って呉を滅ぼしました。ここに、黄巾の乱から数えると100年近く続いた三国時代は終わりを告げたのです。

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