2-1.イギリス全土を巻き込んだ一大内乱!
ピューリタン革命について語る上で、17世紀中葉イギリスの社会のしくみをおさえておきましょう。時代はスチュアート朝の絶対王政。王権神授説に基づき国王は絶対的な権力を持っていました。その下部組織である議会の中心にいたのがジェントリ。彼らは平民身分でありながら裕福な地主。州代表の下院議員になり国政に参与していました。「郷紳」とも訳されます。
ジェントリの多くはピューリタンでした。彼らは宗教と信仰の自由を求めて動きはじめます。時の国王はチャールズ1世。財政難の国庫を立て直すべく、議会に無許可で課税をしたり貴族に献金を強要しようとしていました。
権力の濫用を行なう国王。これに対してジェントリたちがチャールズ1世に提出したのが「権利の請願」です。議会の許可なしに課税や、不当な逮捕や投獄を行わないよう求めたもの。国王の政治的権力をおさえ、民主的に物事を進めようとする画期的なものでした。しかしこれをチャールズ1世は無視。議会を無くし、わずかな側近のみで政治を推し進め始めるのです。専制政治にあきたらないジェントリと対立が決定的になりました。
2-2.英雄オリバー・クロムウェル
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ピューリタン革命の立役者オリバー・クロムウェル。ジェントリ階級に生まれた彼はピューリタンであり、ピューリタン革命で王党派と対立する議会派です。彼は類まれな政治家であり軍人でした。権利の請願が無視された後、ピューリタン革命は彼によって一気に推し進められていきます。
当時はイングランド、スコットランド、アイルランドの3王国に分かれていました。クロムウェルはイングランド議会軍の首領として、スコットランドとアイルランドをそれぞれ征服、併合します。現在の「イギリス」の土台がクロムウェルの行った戦争により成立したのです。
しかし革命直後によくあることですが、チャールズ1世を処刑した後の国は大混乱。イギリスは国王処刑に伴って共和制に移行。それに伴い英雄オリバー・クロムウェルは護国卿として国のトップに立ちました。しかし彼による政治は独裁化。クロムウェルの死によって護国卿政治は5年たらずで終わります。やっぱり王様がいるのも悪くなかった……。そんな思いでイギリスは王政復古を選択しました。イギリス共和制はわずか11年。そのうち5年間はクロムウェルの護国卿政治による独裁統治でした。
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2-3.カオス!17世紀の危機に、ヨーロッパは
そんな超ド級のカオスだったイギリスに、通常ならばフランスをはじめとする他国がこれ幸いとばかりに干渉してくるのが歴史のお約束です。が、この時ばかりはそうもいきませんでした。ヨーロッパ大陸では三十年戦争やユグノー戦争が繰り広げられていたのです。イギリスなんか構っている余裕はどこにもありませんでした。
さてこのピューリタン革命によって、現在の「イギリス」の基盤が出来あがったのです。すなわちイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド(現在は北部アイルランドのみ)の4地域が1つの国に。絶対君主制から立憲君主制に移行したのもこの時です。
その後、イギリスのピューリタンはどうなったのでしょう?実は17世紀後半に「審査法」という法律で、英国国教会の信徒以外は公職に就けない決まりになっていました。しかしピューリタン革命の後に起こった名誉革命後に寛容法が制定。信仰の自由が認められます。しばらく継続していた審査法は19世紀前半に廃止されました。紆余曲折はありましたが、イギリスでピューリタンは人権を勝ち取ったのです。
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ピューリタンの力がイギリスの形を変えた
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同じカルヴァン派をピューリタンと呼んだりユグノーと言ったり、ややこしいですね。カトリックとは根本から違う世界観や政治概念は、イギリスの国の形を変えるエネルギーを持っていました。しかし、王政打倒したのにすぐ王政復古してこれ意味なくない?そんなことを思ってしまうかもしれません。17世紀の危機という言葉があるほどに、この時期はヨーロッパの過渡期でした。最終的に権利と信仰の自由を勝ち取ったピューリタン。すごいエネルギーですね。