幕末日本の歴史江戸時代

「対馬藩」とは?600年以上にわたって対馬を支配した宗氏の歴史をわかりやすく解説

苦渋の朝鮮出兵

九州進出の夢は頓挫したとはいえ、宗氏の持つ貿易権益は盤石なものでした。第19代当主義調は朝鮮と【丁巳約条】を結び、ますます貿易を拡大していきます。

ところが豊臣秀吉が島津氏を攻めた九州征伐を機に、周囲の状況は宗氏にとって微妙なものと変わっていくのです。いちはやく豊臣政権に臣従した第20代当主義智は、秀吉から朝鮮を服属させたいという計画を打診されました。秀吉は明国を征服する願望を持っており、そのためには朝鮮半島を通るルートを確保することが絶対条件でした。

しかし義智は難しい問題に直面したと思いました。秀吉の命令をそのまま朝鮮側に伝えるわけにもいかず、かといって秀吉の命令に背けば、それはすなわち宗氏の滅亡に繋がるためです。

追い詰められた義智は致し方なく、博多の僧景轍玄蘇を日本国使節に仕立てて、ともに朝鮮へ赴きました。「秀吉が天下人となったので、祝賀の使節を寄こして欲しい」と偽りの主旨を述べるために。また秀吉の家臣小西行長も義智を支援しました。

朝鮮側はしつこいほど義智が要請するため、祝賀使節を日本へ送ることに決めます。そして1590年、秀吉は使節らを引見しました。ところが秀吉は使節たちを「朝鮮が日本へ服属すること」を伝えに来たものと勘違いしてしまい、ついには「では朝鮮は明までの道案内をするように」と命じたのでした。

これを聞いた朝鮮側は仰天します。「祝賀する意図があっただけなのに、なぜ我々が秀吉の先導役をせねばならないのだ!」

義智らの必死の説得も虚しく交渉は決裂し、ついに朝鮮出兵が断行されました。義智もまた日本軍の先鋒として戦場へ赴き、望まない戦いに駆り出されることになったのです。ましてや義智は朝鮮代官も兼任していましたから、その思いはいかばかりのものだったでしょう。

この無謀かつ不毛な戦いは秀吉の死まで続けられ、長く続いた朝鮮と宗氏の関係も断絶することになりました。

「宗氏」の歴史~対馬藩の始まりと朝鮮通信使~

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不毛な戦いの末、長く築き上げてきた朝鮮との関係を断絶させてしまった宗氏ですが、思わぬ助け舟が出されることになります。江戸幕藩体制に組み込まれながらも、独自の存在感を示してきた対馬藩がいよいよ立藩するのです。

朝鮮との関係修復に奔走する宗義智

秀吉の死の直後に起こった関ヶ原の戦いでは、宗義智は西軍に加担してしまい、伏見城や大津城を攻撃しています。関ヶ原本戦で西軍が破れ、多くの大名たちが改易されていく中、なぜか宗氏だけは本領安堵の沙汰が下るのです。

これには徳川家康の思惑がありました。徳川幕府が朝鮮と国交を回復すれば、外国から認知された唯一の政権であることを示すことができますし、豊臣氏がまだ健在である以上、外交政策を進める幕府の存在感を国内へ向けてもアピールできるわけです。「朝鮮との国交回復」という重要な役割を義智に担わせる必要があったのですね。

しかしいったん瓦解した信頼関係を修復するのは並大抵のことではありません。義智は必死の覚悟をもって説得に臨みました。「朝鮮出兵は本意ではなかったこと」「秀吉が亡くなり政権が変わったこと」「新しい国王は朝鮮との国交回復を望んでいること」など、とにかく言を尽くし誠意をもって交渉を続けます。

朝鮮側ではいまだ反対の声が大きかったものの、ようやく来日使節を派遣することに漕ぎつけました。

1605年、家康は伏見城において使節を引見します。「自分は朝鮮出兵に反対の立場だったし、徳川家から一人も兵を出していない」と強調し、国交回復への方向性を協議しました。

朝鮮国内では「我等にあれだけの被害を与えた日本を許すべきではない!」という声も挙がりますが、朝鮮側にはそうは言っていられない状況もありました。度重なる戦乱で国土が荒廃していたこと、国境付近で女真族らの侵入が相次ぐなど国内外の情勢が不穏だったからです。

1609年、江戸城において国書が交わされ、正式に国交が樹立されました。その後、日朝両国は通信使の交流を計12回行い、朝鮮通信使は1811年まで継続されるのです。

対馬藩改易の危機

徳川幕府の成立とともに宗氏は対馬藩(対馬府中藩)を立藩しました。また朝鮮との国交回復に尽力したとして、10万石という国主クラスの家格を手に入れました。さらに朝鮮と独自に交易することも許され、日本そして朝鮮の双方から信頼を勝ち得たのです。

しかしそんな対馬藩に危機が訪れます。実は日朝国交回復交渉を急ぐあまり、前藩主義智が双方の国書を偽造し、都合の良いものに改竄していたのです。それは対馬藩にとって極秘中の極秘事項でした。

ところが宗義成が藩主だった1633年のこと、対馬藩家老だった柳川調興が、その事実を幕府に対して訴え出るという事件が起こったのです。柳川家は対朝鮮政策の実務的役割を担っており、大いに幕府から重用されていました。ところがその待遇に気を良くした調興が野心を抱き、対馬藩から独立して幕府直臣の旗本になろうと画策したのでした。

「対馬藩の秘密を暴露して改易処分にさせた上で、幕閣は必ず自分を旗本として取り立てるはずだ。」と考えたのです。

1635年、将軍家光の御前で藩主対家老の直接対決が始まりました。義成がもし負ければ対馬藩は取り潰し。長く続いた宗家も断絶の憂き目に遭います。

しかし家光の決断は藩主側に軍配が上がりました。朝鮮との交渉役から宗氏を外せば、朝鮮側からの信頼を失うと判断されたこともありますし、何より調興のあからさまな野心が気に入らなかったのでしょう。

対馬藩は従前通り朝鮮との窓口を仰せつかり、敗訴した調興は流罪を申し付けられました。

繁栄期を迎えた対馬藩

当時、どの藩も持たなかった貿易特権を対馬藩は独占していました。そのため石高がほとんど無いにもかかわらず貿易利得のみで藩の運営を賄っていたのです。他藩のように天候不順による不作で財政難になることもありませんし、比較的余裕のある財政状況でした。

また17世紀後半に入ると、古くからあった対馬銀山から多くの銀が採掘されるようになり、日朝貿易と相まって対馬藩に大きな富がもたらされることになりました。潤った財政は内政のために使われ、豊富な資金を背景として優秀な人材の登用も行われました。

そのうちの一人が雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)です。近江の生まれで遠祖は浅井氏に仕える武士だったらしく、江戸で朱子学を学んで秀才と謳われた人物でした。彼は24歳で対馬藩に仕官し、朝鮮へ渡って朝鮮語を学ぶかたわら、交渉役として大いに活躍しました。

いっぽう幾度も朝鮮通信使に随行して江戸へ赴き、幕府とのパイプ役を担うなど大いに重用されたそうです。また私塾を開くなど後進の育成にも熱心で、藩の文教政策に大きく貢献したといいます。

対馬藩の秘密を幕府へ訴え出た柳川調興が流罪になった時、彼の旧領地は「田代領」と呼ばれていました。九州の飛び地だったため幕府天領となってしまいますが、1711年に対馬藩へ返還されました。石高にして2千石あったそうですから、石高がほとんどない対馬藩にとって相当なものだったでしょう。

現在でも田代にある大興善寺には「東照大権現(家康の神号」が祀られ、天領だった頃の面影を偲ばせてくれます。

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