幕末に起こったポサドニック号事件
幕末になると日本沿岸には外国船が頻繁に出没するようになりました。対馬も例外ではなく、日本にとって海防上重要視される地域となったのです。
この頃の対馬藩は日朝貿易もふるわなくなっており、財政は悪化の一途を辿っていました。いっそのこと危急の秋にある対馬を幕府直轄地とし、代わりに相応の領地を頂くという計画もありましたが、600年の歴史がある宗氏にとってやはり父祖伝来の地。そう簡単に事が運ぶわけではありません。
外国の脅威が叫ばれ攘夷論が高まっていた1861年、1隻のロシア軍艦(ポサドニック号)が対馬へ来航します。彼らは許可もなく上陸し、修好を求め、近隣の村々に乱暴狼藉を働く有様。困った対馬藩が幕府に報告したところ、幕府は外国奉行の小栗上野介を派遣したのです。
小栗はロシア側と交渉を続けますが、無理難題を吹っかけてくる相手に辟易し「いっそ対馬を幕府直轄地として収公し、その上で国家間の正式な交渉をするべきだ。」と打診します。しかし幕府の態度は曖昧に終始し、愛想が尽きた小栗は外国奉行を辞任して帰ってしまいました。
結局イギリスの取りなしで事件は終息するのですが、これ以降の対馬藩は藩内対立や財政再建の失敗などで、幕末の政局の動きに大きく出遅れてしまいます。
明治になり、宗氏は藩主の地位から藩知事に任命され、廃藩置県によって対馬藩もまた厳原県へと改名されました。しかしその後も宗氏の当主たちは、対馬や朝鮮と大きく関わり、日清戦争時に対馬義勇団を組織したり、李氏朝鮮の李王家の女性を妻に迎えるなどしていますね。
偉大な歴史を持つ宗氏
600年もの長きにわたって、ずっと同じ土地を支配した武家もそういないことでしょう。筆者には島津氏、南部氏くらいしか思い当たりません。対馬の歴史は宗氏の歴史でもあり、やはりこの両者の関係は切り離せないのだと思います。「海の道」を支配した宗氏は、日本の歴史の中で目立たないまでも重要な役割を果たしていたのでしょうね。