足尾銅山鉱毒事件は近代的な科学分析調査が行われなかった
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現代では、科学分析技術が進み、水系に含まれる化学物質を簡単に割り出し、その成分の傾向からどこからもたらされたのかを容易に知ることができます。それは科学分析技術が発展した第二次世界大戦後からの進展であり、その背景にはアメリカなどでの化学肥料などの影響による被害の原因追及をする環境問題がありました。環境問題におけるバイブルとも言われるレイチェル・カーソンの「沈黙の春」などにもこの当時の様子が記載されているのです。
高度経済成長時代の公害まで科学的な調査は行われず
このように、世界的に見ても環境汚染問題の科学的分析技術が進んだのは、第二次世界大戦後の1950年代に入ってからになります。それまでは足尾銅山に限らず、世界中で大企業による開発行為や薬害によって大きな環境問題が発生していました。
環境庁ができて初めて科学的調査が行われた
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日本でも、これらの環境問題が大きく取り上げられるようになったのは、高度経済成長時代に入ってからです。水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息などの四大公害訴訟などがおこなわれるようになったからでした。多摩川、利根川などから取水する関東の水道の水質汚染問題も大きな話題になったのです。その結果、1967年に公害対策基本法が施行され、1971年には環境庁(現環境省)が新設されて環境問題に対する社会的意識が高まるとともに、科学的分析技術も進みました。
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