フランスブルボン朝ヨーロッパの歴史

ヨーロッパにその名を轟かせた名門「ブルボン家」とは?元予備校講師がわかりやすく解説

フランス絶対王政を極めた太陽王ルイ14世

1643年、ルイ13世の死によって王太子ルイがルイ14として即位します。この時、ルイ14世はわずかに5歳。宰相のマザランが全面的にルイ14世を補佐しました。

1648年、貴族たちの一部がフロンドの乱とよばれる反乱を起こします。ルイ14世を含む王家の面々はパリを脱出し難を逃れました。1653年、マザランの手腕により反乱が鎮圧されると、反乱以前よりもフランスの王権は強化されます。

1661年、マザランが死去するとルイ14世は自ら政治を行いました。ルイ14世は、王権は神から与えられたものであるとする王権神授説を信奉し、宰相を置かない絶対王政を展開します。

ルイ14世の言葉として「朕は国家なり」が知られていますが、実際に行ったかどうかよりも、現実問題としてフランスはルイ14世の所有物といってもよい状態だったのは確かですね。

ルイ14世は財務担当としてコルベールを登用。必要な資金を調達したうえで積極的な対外戦争に乗り出します。また、ナントの王令を廃止したため、ユグノーの商工業者が脱出するなど国力の衰退を招きました。

ポンパドゥール夫人を寵愛した最愛王ルイ15世

ルイ14世は非常に長い間、国王として君臨しました。そのせいで、ルイ14世よりもルイ14世の子供の方が先に死んでしまいます。ルイ14世が亡くなった時、国王となったのはルイ14世のひ孫であるルイ15でした。ルイ15世は5歳で即位します。

ルイ15世の時代、粛清や宗教対立は少なく、フランス国内は比較的平穏でした。対外的には積極的な対外戦争を継続するなど、ルイ14世時代の戦略を踏襲します。オーストリア継承戦争や七年戦争では植民地をめぐってイギリスと戦い、手痛い敗北を喫しました。

ルイ15世は多くの貴婦人を寵愛したため、最愛王のあだ名を奉られます。多くの貴婦人の中で、最もルイ15世に影響力を及ぼしたのはポンパドゥール夫人でしょう。ポンパドゥール夫人はオーストリアの女帝マリア・テレジアの娘であるマリ・アントワネットとルイ16世の結婚にも強い影響力を及ぼしました。

フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世

1774年、ルイ15世の死によりルイ16が国王の座に就きました。ルイ16世が即位した時、ブルボン朝は様々な問題を抱えていました。その中でも一番大きな問題は巨額の財政赤字です。

ルイ14世からルイ15世と続いた対外戦争は、フランスの国庫を空っぽにしてしまいました。ルイ16世に財政再建を命じられたネッケルらは貴族や聖職者に課税しようとしますが失敗。

課税のために開いた三部会では平民たちが国民議会の開催を宣言し、王権に抵抗する姿勢を見せます。ルイ16世は国民議会を認めず武力弾圧しようとしましたが失敗。フランス革命を引き起こしてしまいました。

1791年、ルイ16世は妻の実家のオーストリアを頼って脱出しようとしましたがこれまた失敗し捕らえられ幽閉されます。

1792年ルイ16世の王権は停止。1793年1月21日に王位を没収されギロチンにかけられ処刑されました。この年の10月、妻のマリ・アントワネットもともに断頭台の露と消えます。これにより、ブルボン朝は断絶しました。

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