南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

関東を二分し関東の戦国時代の幕開けとなった「享徳の乱」とは?元予備校講師が分かりやすく解説

享徳の乱後の関東

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28年も続いた享徳の乱は、関東の政治・経済・社会に大きな打撃を与えました。古河公方・堀越公方ともに権威が低下します。その後、堀越公方の内紛に乗じた伊勢宗瑞(北条早雲)が堀越公方を滅ぼし伊豆を奪取。北条早雲の子の氏綱、孫の氏康は上杉氏を弱体化させ関東の広い範囲を支配する戦国大名に成長しました。一方、古河公方は徐々に力を弱め戦国時代後期に消滅。子孫は喜連川氏として江戸時代を生き延び明治維新を迎えました。

北条早雲による伊豆奪取と堀越公方の滅亡

北条早雲こと伊勢宗瑞は、室町時代中期に幕府政所をつとめる伊勢氏の一門として生まれたとされます。宗瑞の妹である北川殿は駿河の守護大名今川義忠に嫁ぎました。

1476年、今川義忠が遠江での戦いで戦死した時、跡継ぎの龍王丸が幼かったこともあって今川家で家督争いが起きます。宗瑞は駿河に下向し、対立する勢力を調停しました。1487年、宗瑞は再び駿河に下向。成長していた龍王丸を今川家の当主とするため活動しました。

今川家の当主となった龍王丸は氏親と名乗り、宗瑞に伊豆との国境近くの興国寺城を与えます。このころ、出家して早雲と名乗るようになりました。

1491年、伊豆で堀越公方足利政知が死去。すると、政知の子の茶々丸が弟を殺害し強引に家督を相続。伊豆が混乱状態となりました。

この機会をとらえ、早雲は堀越御所を急襲し、足利茶々丸を討ち取ります。5年がかりで伊豆を占領した早雲は隣国の相模にも進出。小田原城を奪取し関東進出の足掛かりを築きました。

河越城の夜戦

小田原を占領し、相模各地を平定した早雲は1519年に亡くなりました。跡を継いだ氏綱北条氏を名乗り、関東管領上杉氏を圧迫します。

このころ、上杉氏は北関東を本拠地とする山内上杉氏と南関東を本拠地とする扇谷上杉氏に分かれていました。早雲や氏綱が戦ったのは主に扇谷上杉氏です。河越城は北条氏と扇谷上杉氏が城でした。1524年から4度にわたって河越城攻防戦が繰り広げられます。もっとも有名なのは1546年におきた河越城の戦いでしょう。

氏綱の跡を継いだ北条氏康は、山内上杉氏・扇谷上杉氏・古河公方の連合軍に河越城を攻められます。

圧倒的大軍に包囲された河越城でしたが、守将北条綱成の奮戦によりかろうじて持ちこたえていました。北条氏康は連合軍が長期の包囲戦で緊張感を欠いていること見抜き連合軍を夜襲。扇谷上杉氏の当主や有力武将を討ち取りました。以後、上杉氏は衰退します。

古河公方の消滅

河越城の戦いに敗れた古河公方は影響力を低下させます。力が弱くなった古河公方足利晴氏は北条氏の圧迫に耐えられなくなりました。1552年、古河公方足利晴氏は家督を氏康の甥である足利義氏に譲り隠居しました。

1554年、勢力挽回を図った足利晴氏は古河城に籠城し、北条氏に戦いを挑みます。しかし、北条氏との圧倒的な戦力差を覆すことはできず敗北しました。上杉謙信が関東管領として関東に進出すると、足利藤氏を古河公方として推戴。そのため、北条氏の推す足利義氏と上杉謙信が推す足利藤氏という二人の古河公方が並立します。

北条氏康と上杉謙信が和睦したのち、古河公方は足利義氏のみとなりました。1583年に義氏が子供を残さず死去したことで古河公方は消滅します。

関東の動乱を生き延びた古河公方の末裔は喜連川氏として江戸時代も存続

喜連川城址
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1590年、小田原攻めにより北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、足利義氏の娘と足利国朝(古河公方の分家)を結婚させ、喜連川に所領を与えて公方家を復活させます。江戸幕府成立後、公方家は喜連川氏と名乗り大名として生き残りました。喜連川氏は江戸時代も存続。明治維新以後、姓を足利氏に戻しました。享徳の乱で成立した古河公方の家柄は戦国乱世や幕末の動乱をしぶとく生き延びたんですね。

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