南北朝時代室町時代戦国時代日本の歴史

関東を二分し関東の戦国時代の幕開けとなった「享徳の乱」とは?元予備校講師が分かりやすく解説

永享の乱で、鎌倉府が一度滅亡

1425年、5代将軍足利義量が17歳の若さで急死しました。義量の死後、父で4代将軍だった足利義持が将軍代行の形で室町幕府を率います。1428年、義持が後継者を指名しないまま亡くなると、6代将軍の候補者たちは石清水八幡宮に集まりくじを引くことになりました。見事、将軍の当たりくじを引いたのが義持の弟の足利義教です。

6代将軍となった義教は、自分の権威を向上させるため鎌倉公方や有力守護大名に対し強硬な姿勢を見せるようになりました。

1429年になると、鎌倉公方足利持氏は関東管領上杉憲実と対立するようになります。1435年、持氏は不仲だった関東管領上杉憲実を攻撃しました。憲実は幕府に救援を要請し永享の乱が始まります。幕府軍は上杉憲実を助けて鎌倉を占領しました。持氏は幕府に降伏し、鎌倉府は滅亡しました。

享徳の乱の経緯

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永享の乱後、関東管領上杉氏が関東を支配しました混乱は収まりませんでした。そのため、幕府は鎌倉府を再興させます。鎌倉府再興後も鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立は継続。1455年に享徳の乱がはじまってしまいました。享徳の乱は28年に及ぶ長い戦いとなります。幕府は鎌倉公方足利成氏に対抗するため足利政知を派遣しますが、政知は鎌倉に入ることができません。その結果、関東には鎌倉から古河に脱出した足利成氏(古河公方)と伊豆の足利政知(堀越公方)という二人の鎌倉公方が並立しました。

鎌倉府の再興

永享の乱の後、鎌倉府は一時的に滅亡してしまいました。その後も、足利持氏の子を擁した結城合戦など関東では争いが続きます。関東管領上杉氏による支配に反発した武士たちは幕府に鎌倉府再興を願い出ました。

幕府はそれにこたえ、鎌倉府の再興を認めます。足利持氏の子である永寿丸は足利成氏と名乗り、鎌倉公方となりました。とはいえ、鎌倉公方と関東管領上杉氏の対立が解消されたわけではなく、鎌倉府再興後も関東の不安定さは変わりません。

鎌倉公方となった足利成氏は、上杉氏と距離を置く結城氏、里見氏、小田氏と手を組んで上杉氏に対抗する勢力を結成します。これを憂慮した上杉氏家臣の長尾景仲や太田資清らは1450年に足利成氏を攻めました。戦いはすぐに終わりましたが、鎌倉公方と上杉氏の対立は解消不可能なものとなっていきます。

享徳の乱の始まり

1455年、鎌倉公方足利成氏は関東管領の上杉憲忠を殺害。鎌倉公方足利成氏派と関東管領上杉氏の争いである享徳の乱が始まりました。幕府は上杉氏を支持。成氏の討伐を決定し、駿河守護の今川範忠らに関東出陣を命じます。

今川範忠は、成氏が北関東の上杉氏と戦いを繰り広げているすきに、成氏の本拠地である鎌倉を占領しました。本拠地を奪われた成氏は下総の古河に本拠地を移します。以後、成氏は古河公方と呼ばれるようになりました。

享徳の乱が発生したことにより、関東は古河公方足利成氏を支持する勢力と関東管領上杉氏を支持する勢力によって分断されます。利根川を境に東側を古河公方が、西側を上杉氏が抑えることとなり、享徳の乱は長期化の様相を見せ始めました。

堀越公方足利政知の派遣と鎌倉府の分裂

1458年、室町幕府8代将軍の足利義政は、僧侶から還俗させていた弟の足利政知を鎌倉公方に任命。関東へと派遣されました。

しかし、関東の武士たちは政知を中心とする幕府の関東介入を快く思わず、足利政知の鎌倉入りを歓迎しなかったため、政知は伊豆の堀越に拠点を構えます。そのため、足利政知は堀越公方とよばれました。

関東での戦いは、古河公方・上杉氏ともに決定的な勝利を収めることができず、ずるずると続く長期戦が続きます。両陣営は互いの本拠地を突くなど積極的な攻撃もしましたが、いずれも失敗に終わりました。

こうして、下総の古河公方足利成氏と伊豆の堀越公方足利政知という二人の鎌倉公方が並立する状態が長期化。享徳の乱は終わりが見えない状態となってしまいました。

享徳の乱の終結

古河公方軍と上杉氏の戦いの中で最も激しかったのは武蔵国五十子(いらこ)周辺で起きた五十子の戦いです。利根川を境に東西でにらみ合っていた両軍は、利根川中流域を制するために五十子周辺の制圧を狙います。

1459年、関東管領上杉房顕は五十子に陣を築いて主力部隊を集めました。古河公方軍も五十子に集結。激戦が繰り広げられましたが、決着がつきません。1477年、上杉方で内紛が起き、長尾景春らが古河公方に寝返りました。これをきっかけに、上杉方が劣勢となり、五十子の陣は解体されます。

劣勢となった関東管領上杉氏は古河公方足利成氏と和睦。1483年には、幕府と成氏の和睦が成立しました。幕府は成氏が関東を治めることを認め、成氏は伊豆国を堀越公方足利政知に譲ります。こうして、28年にも及んだ享徳の乱は幕を下ろしました。

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