イギリスヨーロッパの歴史

偉大な女王ヴィクトリアの跡を継いだ英国王「エドワード7世」の生涯とは?わかりやすく解説

エドワード7世の結婚と反ドイツ感情

母のヴィクトリアは、夫が死んだのは息子のせいだと考え、エドワードを公務から外すようになります。また、女性関係の面でもアイルランド人女優ネリーとの恋愛がヴィクトリアを悩ませました。

ヴィクトリアはエドワードとデンマーク王女アレクサンドラ(アレキサンドラ・アリックス)との結婚話を進めます。1863年3月、エドワードはアレクサンドラと結婚式をあげました。アレクサンドラは美貌で知られた王女でしたがエドワードの女遊びは改まらなかったといいます。

1864年、デンマークは南部のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の領有権をめぐってプロイセンやオーストリアと戦争状態に入りました。

エドワードは義父の治めるデンマークを助けようとしますがうまくいかず、戦争はデンマークの敗北で終わります。以後、アレクサンドラは反ドイツ感情が強まり、エドワードもたびたび同調する姿勢を見せました。

王室に対する国民感情の悪化

1869年、国民のエドワードに対する感情が悪化する事件が起きました。モーダント准男爵の離婚に伴う訴訟事件に、なんと王太子エドワードが出廷する事態になったからです。

きっかけはモーダント准男爵夫人のハリエットの妊娠でした。夫のモーダント准男爵は、子供の父親が自分ではないかもしれないと疑って、ハリエットの机を探索。モーダント准男爵は夫人と男友達の手紙を発見して、妻が浮気をしたと確信し離婚訴訟を起こしました。

夫人と手紙をやり取りしていた人物の一人として王太子エドワードが浮上。エドワードは離婚裁判にまきこまれ、証人として出廷するはめになりました。ヴィクトリア女王が夫の死後、公の場に姿を見せなくなったことともあいまって、国民の間で王室不要論が噴出する事態となります。

父と同じ病での苦しみ

モーダント准男爵の訴訟事件を何とか乗り切ったエドワードですが、1871年に父と同じ病である腸チフスに侵されました。

腸チフスはチフス菌によって引き起こされる感染症で、主に口から感染する病気です。ごく少数の菌が体に入っただけでも発症する腸チフスは、感染の1~3週間後に発症。発症後は高熱・頭痛・全身のだるさなどの症状が現れ、腸からの出血腸管に穴が開くなどの重大な症状を引き起こすこともあります。

息子に厳しい態度をとり続けたヴィクトリア女王も、この時ばかりは必死にエドワードを看病しました。その甲斐もあって、12月14日にエドワードは意識を回復。以後、病状は開封向います。奇しくも、12月14日はアルバート公子の命日だったため、亡き父が息子を救ったかのような印象を世間の人に与えました。

エドワード7世の国王即位

腸チフスからの奇跡的な回復は、国民の間にくすぶっていた王室不要論を吹き飛ばすのに十分なインパクトがありました。皇太子の病気回復を祝う礼拝からの帰り道、ヴィクトリア女王とエドワードは沿道の人々から女王陛下万歳、皇太子殿下万歳の歓呼を浴びます。

1901年1月22日、ワイト島のオズボーンハウスにいたヴィクトリア女王が死去しました。享年81歳。女王の死により、エドワードが国王として即位しエドワード7となりました。時に59歳。半世紀以上を皇太子として過ごしたエドワードにとって、国王即位はどのような気持ちだったのでしょうか。

国王に即位したエドワード7世は王家の名(王朝名)を、ハノーヴァー朝からサックス=コバーグ=アンド=ゴータ朝に変更します。そのため、エドワード7世はサックス=コバーグ=アンド=ゴータ朝の初代君主となりました。

エドワード7世時代の主な出来事

エドワード7世の在位した1901年から1910年は、第一次世界大戦の直前であり、イギリスが大英帝国として最後の輝きを放っていた時代でもありました。最初の5年間は保守党が、残りの期間は自由党が政権を担当します。

エドワード7世の時代は旧来からの植民地帝国と新しく勢力を強めた勢力が激しくぶつかり合う時代でもありました。極東では日本との関係を改善し、日英同盟を結んでロシアをけん制します。日露戦争後はロシアとの関係を改善し、フランスも巻き込んで英仏協商英露協商を結び、新興国ドイツの封じ込めを狙いました。

この間、国政は内閣に委ねつつ、ヨーロッパ各国を訪問するなど精力的に勢力均衡の維持につとめます。エドワード7世の王室外交は、関係国との関係改善に寄与。平和維持に役立ったため、エドワード7世はピースメーカーと呼ばれたこともありました。

エドワード7世の死

1900年代後半、ドイツ・オーストリアとイギリス・フランス・ロシアの関係は、エドワード7世の王室外交によっても埋められないほど悪化していました。エドワード7世自身は、1909年4月から翌年1月までまとまった休暇が取れないほど多忙な日々を送ります。

多忙な日々のさなか、エドワード7世は過労による気管支炎にかかりました。若いころの奔放さとは打って変わり、公務に熱心に取り組むエドワード7世は休暇も取らずに働き続けます。

1910年3月、ようやっとまとまった休暇をとることができたエドワード7世は療養生活に入りました。ところが、議会で与野党の対立が激化。エドワード7世は4月の末には療養を切り上げロンドンに戻ります。無理を押して公務に復帰したエドワードの気管支炎は一気に悪化。5月5日に危篤状態となります。

エドワード7世の病状悪化を聞きつけた王妃アレクサンドラや子供たちはエドワードの枕元に駆け付けました。エドワード7世の最期の言葉は「最後まで仕事を続けるぞ」だったといいます。最後は、父アルバートのように国務に精励しながら亡くなりました

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