室町時代戦国時代日本の歴史

ルイス・フロイスとは?戦国時代の日本を記したポルトガルの宣教師をわかりやすく解説

信長の死後は執筆に専念~全国を巡り『日本史』を編纂

ルイス・フロイスにとって、信長との関係は良好だったようです。

彼はのちの著書で、「地球が丸いことを理解した」などしるし、信長について好印象だったことを書き残しています。

ルイス・フロイスは後に豊臣秀吉にも会っていますが、秀吉のことはあまり好きになれなかったようで、いいことは書いていません。

この「相手の印象」について詳しく記した文章を多く残している点が、日本史におけるルイス・フロイスの評価につながっているようです。

しかしこの状態も長くは続きませんでした。1582年、本能寺の変で織田信長が襲撃され、ルイス・フロイスは再び後ろ盾を失ってしまいます。

1583年、ルイス・フロイスは布教活動からいったん身を引き、日本で見聞きしてきたことを書物にまとめる作業に着手。日本各地を巡り、日本について詳しく記した書物『日本史』の編纂に心血を注ぎます。

次の権力者となった豊臣(羽柴)秀吉も、最初はキリスト教の布教を推奨していました。しかし秀吉は信長とは一味違います。自分の野望の邪魔になりそうなものには鼻が利く秀吉。日本でのキリスト教の広がりと、信者たちの強い信仰心を目の当たりにし、危機感を覚えたのです。

晩年は長崎で静かに……フロイスの墓は長崎にある?

1587年、秀吉は伴天連(バテレン)追放令を発布。宣教師たちは京都を追われることとなります。

ルイス・フロイスも京都を離れ、長崎へ。厳しい時代となりましたが、それでもルイス・フロイスは長崎での布教活動を続けながら生活していました。

日本での布教活動は難しくなるかもしれない。ポルトガルに帰ろうとは思わなかったのでしょうか。

1592年、ルイス・フロイスは一度、マカオに渡っています。マカオといえば、ポルトガル王国の貿易拠点のひとつ。このままポルトガル行きの船を待ち、帰国するのか?と思いきや、1595年に長崎に戻ってきます。このとき既に60歳を超えていたルイス・フロイス。ポルトガルへの長い船旅は体力的に難しいと思ったのかもしれません。

1597年、秀吉の命令で、京都にいたキリスト教宣教師たち24人が捕縛され、2人の日本人信者とともに長崎で処刑されるという悲劇的な事件が勃発。ルイス・フロイスはこの出来事を『二十六聖人の殉教記録』に記し、この後間もなく、長崎の修道院で息を引き取ります。

長崎で亡くなったことは確かなのですが、ルイス・フロイスのお墓がどこにあるのかわかっていません。日本での活動を見れば、大きなお墓があってもおかしくないのですが……。お墓がないので、「ルイス・フロイスは死の間際にマカオに行ったのではないか?」「ポルトガルに帰ったのか?」など、様々な憶測が飛び交っています。さて、真実は……。

長崎にはキリシタンのお墓がたくさんあります。もしかしたらルイス・フロイスのお墓も、その中にあるのかも、との説も。仰々しいお墓を立てるより、ひっそりと静かに……ルイス・フロイスが最期にそう願ったとしても、何ら不思議はありません。

日本人より日本の歴史を詳しく描いた~宣教師ルイス・フロイスの生涯

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多くの情報を瞬時に入手できる現代でも、遠い外国へ出かけるときは不安があります。これが400年以上も昔のことだとしたら?私なら絶対、そんな遠い国になど行かない、行ったとしても不安で布教どころの話ではなくなるはず。しかしイエズス会の信者たちは、大きな船が出ると知ると自分たちも載せてほしいと頼み、積極的に異国へ出かけて行ったといういうから驚きです。日本が異国の人々の締め出しにかかってからも、日本に残り、天寿を全うしたルイス・フロイス。世界遺産に登録された長崎の教会群を見ながら、日本のことを「良い国だ」と思ってくれていたなら……と、ふと、そんなことを感じました。

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