日本の歴史江戸時代

寛政の改革を実行した白河藩主「松平定信」を元予備校講師がわかりやすく解説

改革の背景となった田沼政治

18世紀前半、定信の祖父である8代将軍徳川吉宗享保の改革を実施します。享保の改革は農業中心の改革でした。新田開発を行い米の生産力を増加させ、幕府の収入をふやします。しかし、年貢増徴政策は農民の激しい反発を招き、吉宗時代の後半には一揆が頻発しました。

18世紀後半、10代将軍徳川家治の信任を得て側用人となっていた田沼意次が側用人兼老中となります。田沼は商業中心の改革を行い、株仲間を公認することで商人たちから税を得ようと考えました。

田沼の改革により、経済活動は活発化します。しかし、商人たちとの結びつきが強くなりすぎ、わいろ政治が横行してしまいました。

天明の大飢饉の最中にあたる1784年、田沼の子、若年寄田沼意知が旗本佐野政言によって刺殺されます。このあたりから、田沼の権勢に陰りがみられるようになりました。

田沼の失脚と定信の老中就任

天明の大飢饉は年々悪化しました。飢饉の度合いが激しくなり、餓死者が続出する事態は一向に改善されません。農村で食べていけなくなった人々の一部は江戸に流入します。すると、今度は江戸の治安が悪化。打ちこわしが多発しました。

1786年、10代将軍徳川家治が死去。わいろ政治の横行を招いたこともあり、田沼は往年の力を失っていました。後ろ盾を失った田沼は老中を辞職し失脚します。田沼は領地を没収され蟄居のみとなりました。

徳川家斉が11代将軍となると、定信は御三家の推挙で老中首座となります。定信は田沼時代の官僚たちを一掃。8代将軍徳川吉宗時代の享保の改革を手本とする政治改革を実行しました。松平定信が行った政治改革を寛政の改革といいます。

農村復興と社会福祉政策

松平定信がモデルとしたのは享保の改革です。享保の改革は農業重視を重視しました。定信は疲弊した農村を立て直すため、江戸に出稼ぎに来る人々を農村に返す旧里帰農令を出します。農村に帰るものに資金援助をし、帰農を促しました。

1789年、定信は囲米の制を発令します。飢饉に備え、社倉や義倉に米や穀物を備蓄させる制度で、白河藩時代に作らせていた郷蔵と同じような仕組みでした。江戸の町でも、町会所の費用を節約させ、節約した文の70%を積み立てる七分積金の制度を作ります。これにより、江戸の貧民を救おうとしました。

これら、セイフティーネットを作り上げると同時に、定信は無宿人となった人々を収容し職業訓練を施す人足寄場を設置します。定信は総合的に社会福祉政策を実行し、貧困対策と治安維持の両立をはかりました。

外国の進出に対する備え

定信が寛政の改革を行った18世紀末は、ヨーロッパでフランス革命が起きるなど大変動が起きていた時期でした。同時に、ヨーロッパ諸国がアジアに進出し始めた時期でもあります。

田沼時代、工藤平助の『赤蝦夷風説考』などによって北方警備の必要性を感じた田沼意次は蝦夷地探査を実行させました。定信は蝦夷地探査を継続させます。

1792年、ロシア使節ラクスマンが蝦夷地の根室に来航しました。ラクスマンは日本に通商を要求します。しかし、定信はロシアとの通商を許可しませんでした。

ラクスマンの来訪でロシアの脅威を感じた定信は海防の強化に乗り出します。定信は自ら伊豆(静岡県伊豆半島)や相模(神奈川県)を視察。江戸湾の防備などについて思慮を巡らせました。また、諸藩に海岸線の防備を強化するよう指示を出します。

思想・出版の統制

江戸時代、幕府が推奨し武士の基本教養となっていたのが朱子学でした。5代将軍徳川綱吉湯島聖堂を建て、朱子学を振興させます。8代将軍吉宗は朱子学よりも実学を重視したため、定信の時代の朱子学は不振となっていました。

定信は幕府の権威を取り戻すため、朱子学に着目します。定信が朱子学に着目したのは、朱子学が農業を重視し上下の秩序を重んじていたからでした。1790年、定信は寛政異学の禁を出し、朱子学を正学とすることや湯島聖堂の学問所で朱子学以外の教授を禁じます。

同時に、定信は民間人が幕政批判を行うことを禁止。海防学者の林子平が処罰されました。また、洒落本黄表紙といった大衆娯楽の分野でも、行きすぎて風俗を乱すと判断された作品は取り締まりの対象となります。

厳しすぎる寛政の改革への批判

定信が主導した寛政の改革は、武士にとっても庶民にとっても厳しいものです。文武の奨励や倹約だけならまだしも、風俗を矯正するとして娯楽の分野まで規制された人々は、寛政の改革に対し強い不満を持ちました。

当時、寛政の改革を批判した風刺が現在に伝わっています。例えば、「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねられず」。文武両道を奨励した定信への皮肉です。

ほかにも、「白河の 清きに魚の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」。白河は白河藩主の松平定信。田沼はもちろん田沼意次ですね。

確かに、定信の登場により汚職や腐敗は減り、政治はクリーンになったかもしれませんが、世の中に住む魚(庶民)にとっては、濁っていても田沼時代の方が住み心地が良かったという嘆き節が聞こえてくるようです。

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