将軍家斉と対立し、老中辞任
定信が老中をつとめていた時、将軍の座にいたのは11代将軍の徳川家斉です、家斉が将軍に就いたのは15歳のころ。現代でいえば、高校生にあたる家斉にとって、10歳以上も年上で政治の実権を握っていた定信は頭が上がらない存在だったかもしれません。
家斉が成長するに従い、家斉は定信と対立することが増えてきました。その代表が尊号一件です。このころ天皇の位にあった光格天皇は、実父の典仁親王の朝廷内での格付けが大臣たちより格下であることを気にし、典仁親王に太上天皇の称号を贈って格を上げたいと考えました。
朝廷からそのことを聞いた定信は、朝廷の秩序が乱れることなどを理由に拒否します。実は、11代将軍家斉も、自分の父に「大御所」の称号を贈ろうとしていたので、同じような内容の朝廷の申し出を定信が拒否したことに不快感を持ちました。1793年、家斉と対立した定信は突如、老中辞任を要求され幕府を去ります。
定信が残した自伝的回顧録『宇下人言』
白河藩(のちに転封され桑名藩)には、老中に就任した藩主以外に見ることを禁じられた書物がありました。三重の木箱で厳重に保管された書物は、桑名藩から老中が出なかったこともあり忘れ去られます。明治時代になり、たまたま発見された書物は、定信が書いた『宇下人言』という書物。後世の私たちが、寛政の改革を知るうえで重要な史料となりました。定信は、政治家としての要を後世の子孫たちに残したかったのでしょうね。