三国時代・三国志中国の歴史

万人敵の異名を持つ万夫不当の猛将「張飛」の生涯を元予備校講師が分かりやすく解説

曹豹と対立し、本拠地徐州を呂布に奪われる

各地を転々としていた劉備は、河北で勢力を拡大していた公孫瓚のもとに身を寄せます。このころ、黄河周辺地域では袁紹曹操が勢力を拡大していました。特に曹操は青州の黄巾族を平定し、精鋭を自軍に編入。「青州兵」と名付けて曹操軍の力を飛躍的に向上させます。

193年、曹操は徐州の陶謙を攻めました。陶謙の配下が曹操の父を殺害したことが原因です。窮地に立たされた陶謙は公孫瓚に援軍を求めました。公孫瓚は劉備らを徐州に派遣します。曹操軍の撤退後、陶謙は劉備を引き留め徐州を譲るとの遺言を残し亡くなりました。

196年、劉備は袁術と戦うため、徐州を留守にします。留守を預かったのが張飛でした。張飛はともに徐州を守っていた曹豹と対立してしまいます。曹豹は流浪していた呂布を徐州に引き入れてしまいました。徐州を失った劉備は曹操のもとに身を寄せます

万人敵の異名に恥じない武勇を見せつけた長坂の戦い

曹操のもとに逃れた劉備は、献帝側近の董承が計画した曹操暗殺計画に参加します。ところが、董承の側近が曹操に計画を暴露したことから、暗殺計画は未然に漏れて失敗。董承は処刑されます。劉備はたまたま外征中でしたが、曹操が攻めてくると抗戦を断念し逃亡しました。

劉備は袁紹とともに曹操と戦いますが敗北。曹操の追手を逃れるため、荊州を支配していた劉表のもとに身を寄せました。

208年、劉表が亡くなると、曹操は劉表の子である劉琮に圧力をかけ降伏させます。その上で、曹操は荊州北方の新野を守っていた劉備に攻撃を仕掛けました。劉備は曹操の攻撃をかわすため南方に逃れます。

退却の途中、長坂で劉備軍は曹操軍の追手に捕捉されました。このとき、長坂橋で少数の部下とともに殿軍をつとめたのが張飛です。張飛が橋の上で立ちふさがると、曹操軍は張飛を倒すことができず、追撃をあきらめました。

南荊州攻略や入蜀戦での活躍

208年、劉備は軍師諸葛亮の進言に従い、長江下流域の江東を支配していた孫権と同盟。背赤壁で曹操軍と戦い勝利します。曹操は一度手に入れた荊州を放棄し、軍を北に返しました。曹操の撤退により荊州は空白地帯となります。

劉備は曹操が放棄した荊州を確保しました。このころ、南荊州は4人の太守たちが支配しています。『三国志演義』において、張飛は武陵郡の制圧を任されました。張飛は武陵太守の金旋に勝利して武陵を制圧します。

211年、劉備は益州太守劉璋の求めに応じて蜀に入りました。その後、劉備と劉璋は対立し劉備は益州攻略戦を行います。張飛は攻略軍の一員として巴郡の厳顔を攻めました。戦いに勝利した後、張飛は厳顔の潔い態度に感銘し、賓客として厳顔を遇します。

張飛の死

image by PIXTA / 19735719

諸葛亮が提示した天下三分の計は、益州(蜀)の制圧によってほぼ達成されました。劉備は配下の将軍のうち、特に功績がある5人を五虎大将軍に任命します。張飛も五虎大将の一人となりました。219年、荊州を守っていた関羽が孫権によって殺害されると、敵を討つため劉備に孫権討伐戦の開始を迫ります。劉備ももちろん同意しました。221年、張飛は孫権討伐軍を編成している最中に部下によって暗殺されてしまいます。

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