三国時代・三国志中国の歴史

万人敵の異名を持つ万夫不当の猛将「張飛」の生涯を元予備校講師が分かりやすく解説

五虎大将への任命

荊州と益州(蜀)を平定した劉備は、配下の将軍の中で抜群の功績をあげた者を将軍に任命します。『三国志演義』では、五虎将軍と通称されますね。

正史『三国志』では、関羽張飛黄忠馬超趙雲の5名が一緒に紹介されます。同時に、関羽は前将軍、張飛は右将軍、馬超が左将軍、黄忠が後将軍に任じられました。

また、正史『三国志』の著者鎮守は、関羽や張飛を一人で一万人に匹敵するという「万人敵」と評しています。劉備からの信頼度や過去の戦歴などから、関羽や張飛が将軍たちの筆頭として評価されるのは当然のことといえるでしょう。

五虎大将への任命とは別に、張飛は巴西太守に任じられ重要都市の閬中に駐屯します。巴西は荊州から蜀漢に向かう重要な場所。劉備からすれば信用できる人間に任せたい要所だからこそ、張飛を太守にしたのでしょう。

義兄関羽の死

順調に進んでいたかに見えた天下三分の計は、思わぬところでほころびを見せます。かねてから荊州の支配権を握っていた孫権は、虎視眈々と荊州を狙い続けました。

219年、関羽は曹操配下の曹仁が守備する樊城を攻撃。関羽の攻撃はすさまじく、曹操が派遣した于禁率いる援軍をも撃破。樊城は風前の灯火となりました。

遷都するとまで動揺する曹操をなだめ、孫権を動かすべきだと主張したのは司馬懿です。司馬懿は孫権の野心を見抜き、荊州分割を持ち掛け関羽の背後を突かせる策を進言しました。

曹操からの提案を受け、孫権は前線司令官の呂蒙荊州侵攻を命じます。呂蒙は病気と偽りわざと戦線を離脱し、関羽を油断させました。

呂蒙の作戦に引っかかった関羽は荊州の守備兵を樊城攻略に回します。呂蒙は隙だらけになった荊州を電光石火攻略しました。関羽は蜀に逃げ体勢を立て直そうとしましたが孫権軍に捕らえられ、斬首されます。

張飛の横死

関羽の死を知った劉備と張飛は孫権に対し深い憤りをみせます。桃園の誓いで「死ぬときは同年、同月、同日に」と誓った義兄弟の死は、到底許せるものではありません。張飛は劉備に一刻も早く孫権を攻撃するよう迫りました。

一方、軍師の諸葛亮や古参の重臣である趙雲らは、今すぐにでも飛び出しそうな劉備を必死に止めます。しかし、その甲斐なく劉備は孫権討伐を宣言。張飛にも出兵を命じました。

張飛は関羽の敵を討つ戦いに前のめりとなり、部下たちに無理難題ともいえるスケジュールで準備を命じます。張飛の部下だった張達范彊は三日以内に一万人分の白衣を用意せよとの要求にこたえられず、張飛から処罰されそうになりました。

日頃の張飛の言動から、間違いなく厳罰に処されると考えた二人は、張飛が酔っぱらって寝込んだすきに襲撃し殺害。首をもって孫権のもとに逃げ去ります。万人敵といわれた猛将にとって、無念の最後となりました。

張飛の横死をすぐに察知した劉備

image by PIXTA / 14755127

閬中から使いが来たと聞いた劉備は、使者の用件を聞く前に「飛が死んだ」と悟ったといいます。生前から、部下に対するあたりがきつく、鞭打ちや死刑を乱発していたことや鞭打ったものをひきつづき側近として仕えさせていることを知っていた劉備は、いつか、張飛が恨みを買って殺されるのではないかと心配していたのでしょう。関羽に続いて張飛まで失った劉備は、自分の怒りを止めることができず孫権軍と戦い大敗を喫します。敗戦後、失意の劉備は白帝城でこの世を去りました。関羽や張飛と死を共にできなかったことを、劉備は深く悲しんだのでしょうね。

1 2 3
Share: