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近代ニッポンを支えた世界遺産「八幡製鉄所」とは?わかりやすく解説

製鐵所の発展と拡張の歴史

八幡製鐵所の操業が軌道に乗り始めた頃、鉄の需要が飛躍的に高まる事件が起こりました。それが日露戦争の勃発でした。第一次拡張期を迎えた製鐵所は、膨大な軍事物資を供給するという観点から、高炉の追加建造や各種工場の整備が次々に行われ、鋼材生産量は従来の2倍となる年間18万トンに拡大されました。

戦争が終わっても民間需要の高まりから生産量は増え続け、第二次拡張期には生産量年間30万トン、第一次世界大戦が終わった直後の第三次拡張期には年産75万トンにまで達しました。

また八幡製鐵所の発展に伴って、多くの企業が北九州の地で誕生し、まさに企業城下町の様相を呈していたといいます。ちなみにこの時に誕生した企業には、田村汽船(現在のニッスイ)、出光商会(現在の出光興産)、東洋陶器(現在のTOTO)など、現在では錚々たる大企業が揃い踏みしていますね。

こうして国内の大半の需要を賄うようになった八幡製鐵所ですが、昭和恐慌から続く不況の時代に、製鉄業合理化のために民営へと舵を切ることになりました。

昭和9年、日本製鐵(現在の日本製鉄とは全く別)として再スタートを切った製鐵所は、ここで正式に「八幡製鐵所」を名乗ります。ようやく不況を脱した日本経済は、ますます八幡製鐵所をあてにし、製鐵所自体もますます拡張されていくことになりました。

八幡製鉄所の歴史【戦間期~現代まで】

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日本の基幹産業の中核として発展を遂げてきた八幡製鐵所。しかし戦争の足跡はもうすぐそこまで近づいてきていました。戦後の復興、そして現代に至るまでの歩みを見ていきましょう。

空襲の目標となった八幡製鐵所

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United States Army Air Forces – http://www.ibiblio.org/hyperwar/AAF/V/AAF-V-3.html#page72, パブリック・ドメイン, リンクによる

太平洋戦争を迎えると、八幡製鐵所は軍需産業の中核的存在となり、結果的にアメリカ空軍の重要目標となってしまいます。戦争も後半になると、戦局は日本にとって次第に不利になりつつあり、本土の防空力も弱まっていました。

昭和19年6月16日、中国大陸から飛び立ったB29の大編隊は北九州一帯を襲いました。この時の空襲でほとんど被害は出なかったものの、有効な反撃もできないまま敵機の跳梁を許した事実は、関係者に強い衝撃を与えたのです。

同年8月20日、再び来襲したB29の編隊は、人命と工場設備に甚大な被害を与えました。東田や洞岡のコークス炉や鋼板工場、西田発電所などが破壊され、動力・ガス・水道・電話などが寸断。また同時に北九州一帯の多くの市民たちが犠牲となったのです。

さらに翌年8月8日、これまでの3倍以上のB29の大群が押し寄せ、八幡市街の20%以上が焼き尽くされ、2,500人以上の尊い人命が失われました。翌日に長崎に原子爆弾が落とさることになりますが、当初は八幡製鐵所近隣の小倉が目標となっていました。しかし八幡空襲の炎と煙で目標が視認できず、長崎に変更になったという経緯があったのです。もし小倉に原爆が落とされていたら…八幡製鐵所のその後の復興もなかったかも知れません。

空襲で八幡製鐵所も大きな被害を受けましたが、高炉の火が消えることはありませんでした。石炭やコークスの入手が難しくなったため、操業を維持するべく、製鐵所の社員が炭鉱で働きながら困難を乗り越えたそうです。

日本の復興に寄与。そして直面する環境・公害問題

やがて終戦を迎え、軍需産業の中核だった八幡製鐵所もその役割を終えたかに見えました。しかし連合国最高司令部の肝いりで、早くも昭和21年に集中生産が開始されることに。なぜなら全国にあった高炉37基のうち、八幡製鐵所の3基だけが稼働可能だったからです。日本の復興のためには、八幡製鐵所の働きが欠かせないという判断からでした。

昭和25年に日本製鐵が分社化され、八幡製鐵として再スタートを切ることになりました。戦後の鉄鋼需要の高まりや、朝鮮戦争における大きな需要に応え、八幡製鉄所は日本の戦後復興に大きく寄与することになったのです。

ところが、日本の経済が大きく振興すると共に新たな問題に直面することになりました。それが環境・公害問題でした。もちろん八幡製鉄所も例外ではありません。

1950~1960年当時は、公害を防止するための環境対策技術がなく、北九州は国内最悪の大気汚染環境となり、洞海湾も死の海と化しました。ダイオキシンに汚染された海は大腸菌ですら死滅するといわれ、船のスクリューですら溶かされました。

そんな公害問題に対して最初に声を上げたのは、子供の健康を心配した母親たちの市民運動でした。自発的に大気汚染の状況を調査し、その結果を元にして企業や行政に改善を求める積極的な運動を起こしました。

その声に押され、自治体と企業は臆することなく問題に取り組み、生産工程の改善や汚染物質の除去処理施設の設置、工場緑化などの対策を積極的に行いました。

また、省資源・省エネルギーを徹底することで、環境への負荷を小さくする技術が導入され、環境改善だけでなく生産性を向上させる経済的効果をもたらすことになりました。

そして昭和62年、当時の環境庁が行った「星空の街コンテスト」で、北九州市は大気環境が良好な「星空の街」に選定され、官民一体となった運動により、公害を克服したことが証明されました。

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