日本の歴史明治昭和

日本経済立て直しを図った「井上準之助」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

浜口雄幸狙撃事件と若槻内閣総辞職

1930年11月14日、浜口は東京駅に向かいました。浜口の目的は岡山県で行われる陸軍演習の視察と昭和天皇行幸への随行です。午前9時発の神戸行き特急燕に乗り込もうとした浜口を至近距離からの銃弾が襲いました。銃弾は浜口の下腹部に命中します。

撃たれた浜口は駅長室で応急手当てを受けた後、東京帝国大学病院で腸の3分の1を摘出する大手術を受けました。その後、浜口は静養しつつ総理大臣としての職務を遂行しますが、これ以上の続行は不可能と考え、1931年4月に内閣総理大臣の職を辞します。浜口に変わって組閣したのは同じ民政党の若槻礼次郎でした。井上は若槻内閣でも大蔵大臣として井上財政を推進します。

1931年12月、中国東北地方の満州に駐留していた関東軍は、満州事変を引き起こし奉天軍閥率いる張学良を追放。満州を占領しました。若槻内閣は不拡大方針を打ち出しましたが軍をとめることが出来ません。結局、若槻は内閣総辞職を選択井上も大蔵大臣を辞任し、井上財政は終了しました。

血盟団による暗殺

第二次若槻内閣総辞職により下野した井上は、民政党の一員として次の選挙での勝利と政権奪還を目指して活動を開始します。井上は民政党の総務になり、来る衆議院議員総選挙の選挙委員長になり活動を活発化させました。

その一方、井上は右翼団体血盟団の標的とされます。血盟団とは、茨城県大洗で井上日召が結成した暗殺組織でした。血盟団は「一人一殺」を唱えます。井上日召の目的は政財界の有力者を暗殺することで社会を混乱させ、軍による政権樹立を助けることでした。

井上日召は、私利私欲を図っているとして政財界の重鎮20名ほどをリストアップ。井上準之助も暗殺候補に名を連ねていました。

1932年2月9日、井上準之助は選挙応援のため駒込小学校を訪問しました。井上が車を降りた直後、井上は実行犯小沼正の銃撃をうけます。井上は病院に運ばれましたが、間もなく死亡が確認されました。

井上財政の功罪

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

歴史において、どの行動が正しく、どの行動が誤っているを決めるのはとても困難です。井上財政は、いわゆる「痛み」を伴う改革であり、軍の反発や企業倒産を招きました。楚の一方、体力のない倒産するべき企業が倒産することは、経済全体にとってプラスに働く面もあります。雇用を守って企業を延命させるべきか、それとも、体力のない企業は破綻させるべきか。このテーマはいまでも多くの財政家を悩ませる問題かもしれませんね。

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