日本の歴史明治昭和

日本経済立て直しを図った「井上準之助」の生涯を元予備校講師がわかりやすく解説

金解禁と緊縮財政

大蔵大臣となった井上にとって、重大な政策が二つありました。一つ目は金解禁。金解禁とは、金の輸出を解禁、認めるということです。

第一次世界大戦中、各国は自国から金が流出しないよう、金の持ち出しを禁じました(金輸出禁止)。大戦終了後、各国経済が正常化するにつれ、大半の国は金輸出禁止を解除(金解禁)します。

このままでは、日本は世界の貿易ルールから取り残され、日本円の価値が落ち、輸出入が不振になるかもしれません。そう考えた井上は、日本でも金解禁を行いました。

加えて、井上は政府の支出を大幅に減らす緊縮財政を行います。金融恐慌以後、支出が増えていたため、日本円の価値がおち、インフレ傾向が強まっていたからでした。緊縮財政を行うことで、世の中に出回っているお札の量を減らし、日本円の価値を回復させることが狙いですね。

世界恐慌と昭和恐慌・農村恐慌

井上財政に暗雲が立ち込めるのは1929年のこと。1929年、アメリカのウォール街で株価が歴史的大暴落。アメリカ初の世界恐慌は瞬く間に世界に広がりました。世界恐慌は日本にも波及し、多くの企業が倒産します(昭和恐慌)。

世界恐慌の影響を強く受けたのがアメリカ向けの輸出が多かった生糸です。生糸は買い手を失い価格が暴落。生糸収入で生計を立てていた日本の農家を直撃しました。しかも、コメの豊作でこちらも価格下落。農村では娘の身売りなどが行われるほどの危機に直面しました(農村恐慌)。

井上が行った緊縮財政や金解禁により円の価値は回復していましたが、輸出という観点で見ると円高は不利です。井上財政に対して強烈な逆風が吹きつけてきたといってよいでしょう。

昭和恐慌・農村恐慌の深刻化

世界恐慌が始まったころ、浜口首相も井上も金解禁と緊縮財政を基本とする井上財政を変更しませんでした。しかし、世界恐慌は彼らの予想よりもはるかに深刻で長期化します。各国は自国の金が流出しないよう、再び金輸出禁止にかじを切りました。

井上はそれでも金解禁をやめません。これに付け込んだのが各国の投機筋でした。投機筋は金解禁を継続している日本の円と金を交換することで、日本から金を持ち出します。円高による不況と企業倒産による失業者の増大、輸出不振による農村恐慌などにより、昭和恐慌は深刻化しました。

緊縮財政により予算を削られていた軍や、企業を財政出動で救済するべきだとする人々は井上を攻撃しましたが、井上は屈せず対立が深まります。

浜口内閣に対するテロと井上の死

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世界恐慌に端を発した昭和恐慌と農村恐慌は深刻さを増していきました。軍や野党など反緊縮財政派は金の輸出再禁止と積極財政を主張しますが、井上は拒否します。たまりにたまった不満は政財界の要人に対するテロとして爆発しました。1930年、首相の浜口雄幸が狙撃されて重傷。内閣総辞職に追い込まれます。1932年、井上自身もテロの標的となりこの世を去りました。

浜口内閣に対する強い不満

1930年、浜口内閣はロンドン海軍軍縮会議において、反対論を抑え込み海軍軍縮条約に調印しました。かねてから、海軍の兵力削減に反対してきた海軍軍令部長の加藤寛治は、天皇に直接訴える帷幄上奏をおこない、内閣が天皇の統帥権を犯す(統帥権干犯)のは許されないと強い反対の意を示します。

浜口は帝国議会で条約案を通過させたのち、昭和天皇に条約の裁可を求めました。昭和天皇は枢密院に諮問します。枢密院は浜口の条約案に賛成である旨を昭和天皇に伝えたため、昭和天皇はロンドン海軍軍縮条約への批准を許可しました。

しかし、反対していた海軍はもとより、民間の右翼団体も浜口を激しく攻撃。加えて、昭和恐慌や農村恐慌の深刻さも改善していないとして反発を強めました。

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