日本の歴史鎌倉時代

国難に立ち向かった若き執権「北条時宗」の生涯をわかりやすく解説

二月騒動が起きる

得宗家という嫡流が執権になるのを不満としている「名越流」と呼ばれる北条一族がいます。北条時頼が就任した時も「宮騒動」というのを起こしていますね。得宗家にしてみれば目の上のたんこぶみたいな存在なのですよ。

文永9年(1272)名越流の「北条教時・時章」と、北条時宗に不満を持っている異母兄・北条時輔(六波羅探題長官)が手を組んで、北条時宗に対して謀反を企んだということが発覚しました。北条教時・時章は鎌倉で討たれ、北条時輔は京都で討たれてしまったのですね。しかし、どうも話は胡散臭いという話も残っています。これが元で得宗家の独裁政治が始まったともいわれていますよ。違った意味で「心を1つにして国難に向う」というのが本当だったかもしれませんね。

なぜ蒙古は日本に来たの?

蒙古というのは「元」とも「モンゴル帝国」ともいわれ、正式には「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」といいます。つまりモンゴルなんですね。欧米では「ダッタン人」ともいわれていますね。音楽に「ダッタン人の踊り」というのがありますが。皆さんご存知の通りの遊牧騎馬民族です。モンゴル出身のお相撲さんが、お休みの時に里帰りしたら家族は遊牧に出かけていて、しょうがないので親戚の家で過ごしたという話もありますね。そのモンゴルはどうやって帝国になったのでしょう。

蒙古とはどんな国?

元々モンゴルには「ウイグル帝国」という統一国家があったのですが、9世紀の時に崩壊して以来ずっと統一国家がなく、たくさんの部族同士が争ったりして「遼朝」や「金朝」の支配下が長い間続いていました。

12世紀末に北東モンゴリアに遊牧する「キヤト氏族」出身の「テムジン」という人物が、部族同士の繋がりではなく主従関係をもった遊牧戦士集団を作り、他の有力部族達も帰属してモンゴルを統一したのですね。この時に「チンギス・ハン」と名乗ることになったのです。明治以降に起きたチンギス・ハンは「源義経」だったという説もありますね。「蒼き狼」ともいわれていますね。

歴代の皇帝達はモンゴルだけではなく、当時中国を治めていた「宋」周辺の国から始まって勢力を広げていきます。最盛期となったのは5代皇帝「フビライ・ハーン」の時ですよ。蒙古襲来の立役者ですね。その頃には中央アジアからロシア・ルーマニア・インド・中国などユーラシア大陸のほとんどを統一して、地球上の陸地の25%を治める大帝国になっていたのですよ。上の地図の青いところはすべてモンゴル帝国なのです。

皇帝になったフビライ・ハーンは、都を「大都(現・北京)」に移して、中国風の「元」という国名に変えました。ここではなじみのある「蒙古襲来」で統一して書いていますが、水戸黄門で有名な「徳川光圀」が編纂した『大日本史』から「元寇」といわれていますよ。

こうなるとかなり怖い独裁帝国だったように思いますが、ユーラシア大陸は国家紛争がない平和となり、関税が売上高の30分の1という低いものでしたので国際市場となっていきますよ。国際感覚も素晴らしく個人の能力に対して民族に関係なく登用したために、白人からイスラムからインドまで色々な人たちが政治に関わっていたといいますね。有名なところでは、イタリア人の「マルコ・ポーロ」や「アフマド」「サイイド」というイスラムの人たちがいます。

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紫蘭