日本の歴史鎌倉時代

国難に立ち向かった若き執権「北条時宗」の生涯をわかりやすく解説

なぜ蒙古は一夜明けたらいなくなった?

最初は優勢に戦っていたところ、徐々に押し返してきた日本軍に対して軍議が開かれました。「このまま戦う」のと「物資の蓄えが少なくなってきたから撤退」のふたつに分かれたといいますよ。大軍隊ですので物資不足は自滅につながるので撤退というのは正解だと思いますね。

その撤退中に暴風雨が蒙古軍を襲って13,500人のモンゴル兵が溺死したといいます。「神風(神がつかわれてくれた暴風雨)で蒙古が撤退した」のではなく「撤退していたら神風が吹いた」というのが正解のようです。

蒙古襲来-弘安の役-

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筆者不明。竹崎季長自身は絵巻を注文しました。 – 蒙古襲来絵詞, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時蒙古は、日本進軍と同時に南宋との最後の戦いもしていました。イランからの投石機も改良しての大激戦で大勝利となりましたよ。身が軽くなった蒙古は、いよいよと日本攻撃を計画します。そして使者をまた何度も送り続けますよ。日本は相手にせずにそのたびに使者を処刑してしまったのですね。

フビライ・ハーンは側近達が「もう海の向こうの国なのだから放っておきましょう」「度重なる戦争と、日本への船の製造で国中が疲れ果てていますので、こんな国益にならないことはやめてください」と言われたのですが、結局は決行することになったのですよ。原因は南宋をはじめとした「征服した国々の捕虜が多くなりすぎて養えなくなったから!」です。ていのいい口減らしという意味もあったのですね。

蒙古側からみた敗因とは

弘安4年(1281)5月3日、フビライ・ハーンは、征服した高麗軍を中心の「東路軍」、征服した南宋軍を中心の「江南軍」の合計14万人を乗せた4,400隻を2つに分け日本に向かわせます。前回より多い世界史上最大の艦隊ともいわれていますよ。しかし兵は大軍であることから「一気にかたをつけて帰れる」という気持ちや、嫌々参加させられているという気持ちがあったようですね。

壱岐でまず東路軍が江南軍を待っていたのですが、季節は夏、蒸し風呂状態で兵は疲弊して、食料は腐って伝染病が流行るということで3000人死んでいます。ある説によると蚊が大量に発生して、体験したことのない痒みで病気になったのではないかとパニックが起きたというのを聞いたことがありますね。ボロボロになった東路軍はようやく江南軍と合流して壱岐・対馬・長門などで衝突があったあと博多湾へと着きますよ。

弘安の役がはじまる前に鎌倉幕府は、長門に警固のための軍を配備し、博多には現在も残っている石塁を積み上げていたので蒙古軍は上陸することができません。攻めあぐねて博多湾で停泊していた蒙古艦隊を、7月30日の夜に大型台風が直撃したのです。その被害は4000隻以上あった船が、約200隻まで減るという大惨劇となったのですね。国に逃げ戻った者以外の兵は、命からがら陸に上がって捕虜(2~3万人とも)となりました。

 

北条時宗が亡くなる

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2度に渡って蒙古軍を撃退して、神風によって日本を守ったのは、北条時宗は神仏から護られている証拠だということで、一躍英雄にとなります。しかし相手が海の向こうの国であることから褒美である土地などの褒賞が少なかったことなどから、御家人達からの不満が高まり、経済的に逼迫していくことになるのですね。

弘安7年(1284)に死期を悟って4月4日には出家。その日に34歳の若さで逝去してしまったのですよ。お墓は自分が建立した円覚寺。死因は結核とも心臓病ともいわれていますが、現在の医学風にいえば「鎌倉幕府」というブラック企業に「過労死」させられたというのが、一番近い気がしますね。

世界を席巻していたモンゴル帝国を倒したのは時頼JAPAN

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実は弘安の役が終わってから、フビライ・ハーンが亡くなるまで蒙古は4回にわたって日本攻撃を計画して、使者を途中で来れなかったの含めて4回送ってきています。これ以降は鎌倉幕府も蒙古のモンゴル帝国も滅亡へと歩き始めるというのは歴史の皮肉ですよね。北条時宗は、この蒙古襲来で亡くなった自国民だけでなく、蒙古兵たちも一緒にお墓をたててあげています。これは為政者として世界でも例が少ないことで、世界中でも評価が高いのですよ。

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紫蘭