元々の元凶を作ったのは誰?
ヨーロッパまで国を広げたそのような国が、どうして日本に興味をもったのでしょうか?元々の原因は、文永2年(1265)、高麗人であるモンゴル帝国の官僚の「趙彝(ちょうい)」たちが「日本という国は高麗の隣国で、制度や法律・政治は素晴らしいですよ。漢・唐の時代から中国と交流してきました」と日本との通交を進言したことが発端だといわれています。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』には「ジパング(日本)は東方の島で、大洋の中にある。住民は肌の色が白く礼儀正しい。島では大量の金で溢れている。君主の宮殿には屋根がすべて純金で覆われて、床も金の板が敷きつめられ、窓もまた同様」などと書かれていて、フビライ・ハーンはとても興味をもって侵掠することを考えついたとあります。本当に迷惑な話ですよね。だいたいこの東方見聞録は、かなりオーバーに書かれているところがあるようで、後に「南蛮貿易」をはじめたポルトガル人たちにも影響を与えたともいわれています。ということで、フビライ・ハーンは日本に対して国書をだすことになったのですね。
戦いが始まるまでの経緯
蒙古からの国書は「もしかして私達の知らない?だったら使者を出して臣下になりなさいよ。もし嫌なら武力に訴えますよ。それが嫌なら考えなさいね」という内容でした。これを読んだ鎌倉幕府は一切返事しないで、朝廷が作った「太政官牒案」の内容は「だいたい蒙古なんていう名前など知らない。好きも嫌いもないけど、いきなり攻めてくるってふざけるな。こっちは神国だぞ、そっちこそよく考えろ」というようなものでしたが、鎌倉幕府は無視することに決めたのですよ。
文永8年(1271)、モンゴルの使節が「11月末の回答期限を過ぎた場合は武力行使も辞さない」と警告してきました。北条時宗は太宰府の九州の責任者でもある鎮西奉行「少弐資能」など西国の御家人にたちに戦争の準備をさせて「異国警固番役」を設置していますよ。今回調べてはじめて知ったのですが、戦いが始まる前に日本からの使者が大都に行っているのですね。しかし戦争前の視察に来たということでフビライ・ハーンには会えなかったようですよ。蒙古からの使者は途中で引き返したのもいれると6回もきています。武力行使を言ったのが5回目、最後の6回目(文永9年(1272))の使者は同じ「趙良弼」という人で、6回目などは1年以上滞在していましたよ。
いよいよ「日本を攻めるぞ!」といきりたっていたフビライ・ハーンに、趙良弼は「日本人は(二月騒動があったためか)獰猛にして殺すことが好きで、父子の孝行や上下の礼を知りません。土地も(大陸のような大草原ではなく)山や川が多くて農作物を育てるのには適していないと思います。そんな国や人を服従させても国益にならないばかりか、海も荒くて危険なので、深い谷を埋めようとするのと同じですよ。やめたほうがいいです」と進言して、フビライ・ハーンも一時期は思いとどまったのですが、翌年には「やっぱり行くぞ!」となってしまったのですね。
蒙古襲来-文永の役-
文永11年(1274)10月3日、モンゴル人の都元帥「クドゥン」を総司令官として、蒙古・漢軍15,000~25,000人・高麗軍5,300~8,000人に水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船というおびただしい数の艦隊が、朝鮮半島の合浦(現在・韓国の馬山)を出航しました。
対馬・隠岐の戦い
10月5日、船団が対馬に到着。蒙古軍のうち約1000人が上陸しますが、日本側は80人だったので全滅。200人にも及ぶたくさんの島民が捕虜として連れ去られてしまいます。この人達は元に連れて行かれて献上品などにされたのですよ。
10月14日、壱岐島の西側に上陸。壱岐守護代「平景隆」は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差で大敗。『高麗史』の「金方慶伝」には日本兵が降伏したように見せかけて反撃したということが書かれていて1000人以上討ち取ったと書かれていますね。
日蓮は御遺文の中で「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記しています。信者であった千葉氏などが出撃していたので惨状を聞いたのでしょうね。女性などは手に穴をあけられて縄で数珠つなぎにされ、船のへりにぶら下げられて矢よけにされたという話も残っていますよ。
博多湾での戦い
10月20日、蒙古軍は博多湾に上陸。ここで御家人達はあることをします。例の「やぁやぁ我こそは〇〇〇〇なり!生国は…」というアレですよ。だいたい名乗りをあげて(その間は攻撃しない)一騎駆けするのが作法だからしょうがないですが、言葉も作法も違う蒙古兵は知ったことではありません。一気に集団で攻撃してきたのです。
おまけに火薬を使った「てつほう」という手榴弾のようなものを投げてきました。日本人が初めて遭遇した爆弾ですね。中国の唐の時代にはすでに『真元妙道要路』に硝石・硫黄・炭を混ぜると爆発を起こしやすいと書かれていて、宋時代に「火槍」という武器を作っていたといいますね。
『蒙古襲来絵詞』における戦いのようす
劣勢の中「菊池武房」が100騎あまりを引き連れて敵陣に突入し、たくさんのモンゴル兵の首をぶら下げて帰陣。退却するところを「竹崎季長」が僅か5騎を引き連れて敵陣に突っ込みます。『蒙古襲来絵詞』で血を流している馬に乗っている武士が竹崎季長ですよ。このために落馬して、あわや!というところを援軍が来て助かったそうですね。
実は『蒙古襲来絵詞』を描かせたのは竹崎季長なんですよ。幕府に自分の活躍を証明するために、わざわざ絵師を連れて行って描かせたそうですね。今でいう「戦場カメラマン」ですね。おかげで蒙古襲来の様子が今でも私達は知ることができます。
これの素晴らしいところは「蒙古の船や水夫たちが描かれている」「日本は個人戦なのに、蒙古は軍制が整っていて集団攻撃をしていること」「蒙古は投げ槍を多用しているのに日本は弓矢や刀で、薙刀をもっているのは雑兵だけ」「てつほうの脅威」が描かれていることですね。
『蒙古襲来絵詞』のおかげで、竹崎季長は「一番駆け」が証明されて大出世をしたのですね。ちなみにこれは2巻でできていて、1巻は「文永の役」2巻は「弘安の役」の構成です。弘安の役でも連れて行ったのですね。