林則徐のアヘン取り締まり
湖広総督としてアヘンを厳禁し根絶した林則徐は、道光帝に対しアヘン禁輸を訴えました。道光帝は林則徐の上奏が理にかない、実績も上げていると考え林則徐をアヘン取り締まりの特別大臣(欽差大臣)に任命。貿易が行われている広東に派遣しました。
広東に到着した林則徐は、イギリス商人たちが保有していたアヘンをすべて没収します。イギリス商人たちは猛抗議しましたが、林則徐は一切聞かず、アヘンを処分しました。アヘンはただ焼いただけでは再利用可能なため、林則徐はアヘンを海水に浸し、塩と石灰で無毒化させたうえで廃棄します。
これに怒ったイギリスは東洋艦隊を清王朝に派遣。現地のイギリス商人に協力させ、林則徐に対抗しました。
アヘン戦争での敗北とその後の清王朝と林則徐
アヘンの没収・廃棄により、イギリスと清王朝の緊張は一気に高まりました。イギリスは東洋艦隊と陸上兵力を清王朝に派遣し、アヘン戦争が始まります。戦争は圧倒的な軍事力を誇るイギリスの圧勝。清王朝は南京条約を結びます。林則徐は解任され西方辺境のイリに左遷されました。この時、林則徐はロシアの脅威に気づきます。
アヘン戦争(阿片戦争)の始まり
アヘンを没収されたイギリス商人たちは、アヘンは商品であり、林則徐は不当に商品をとりあげたとイギリス本国に訴えました。イギリス政府は艦隊を派遣するため、議会の承認を得ようとします。
イギリス議会では、麻薬であるアヘンを商品と認定し清王朝に賠償を求めるのが正当かどうか、審議されました。特に、議会重鎮のグラッドストンが強く反対したため、議論は紛糾します。結局、海軍派遣と開戦はわずか9票差で可決されました。
イギリスは清王朝にアヘンの賠償を要求。清王朝がそれを拒否したことでアヘン戦争が始まります。圧倒的な軍事力を誇るイギリス軍はアモイや寧波を封鎖し、南京、北京に迫りました。イギリス軍の強さに驚いた清王朝は林則徐を解任。英中の和平交渉を始めます。
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南京条約の締結と林則徐の左遷
1842年、清王朝はイギリスと南京条約を結び、アヘン戦争を終わらせました。南京条約では、アヘンの賠償金や戦費など2100万ドルをイギリスに支払うことや5港開港、公行の廃止、香港の割譲、関税自主権の放棄などが定められます。
南京条約は、単なる戦後処理の条約ではありませんでした。この条約を結ぶことで清王朝はイギリスの領事裁判権を認め、自国の関税自主権を放棄し、イギリスの特権的地位を認めてしまいます。他の欧米諸国とも同じ内容の条約を結ぶことで、清王朝の反植民地化が始まりました。
アヘン戦争のきっかけを作ってしまった林則徐は解任後、はるか西方の辺境である新疆のイリに左遷されてしまいます。
イリに左遷された林則徐がロシアの脅威に気づく
林則徐が左遷されたイリは、1755年に清王朝の領土になった地域です。新領土を意味する新疆の一部ですね。遊牧に適する入り周辺は、烏孫やチャガタイ・ハン国など遊牧国家にとって重要な拠点でした。
イリに左遷された林則徐は、優秀な地方官僚であることをまたしても証明します。イリで農地改革を実行し、善政を敷くことで住民たちの支持を得ました。
イリは、清王朝全体からすればはるか西方の辺境です。しかし、拡大を続けるロシア帝国との最前線という意味ではとても重要な場所でした。林則徐はロシアに関する情報を集めて分析。その結果、林則徐はロシアこそ次の脅威となると判断します。
林則徐の死後、1871年にイリはロシア帝国によって占領されました。イリ条約の締結後も、ロシアの南下はとどまらず、清王朝は北辺の領土をロシアに侵食されます。林則徐の予測は的中してしまいました。
太平天国の乱による中央復帰と病死
アヘン戦争からおよそ10年後、明らかに力が衰えた清王朝に対し、大規模な反乱が起きました。太平天国の乱です。キリスト教的結社である拝上帝会の洪秀全を指導者とした反乱軍は貧農や失業者を結集し急速に拡大しました。
太平天国の乱のスローガンは『滅満興漢』。洪秀全は土地の平等な再分配や辮髪の廃止などで人々の支持を集め、社会改革を行いました。
林則徐は1849年に政界を引退していましたが、清王朝は林則徐に太平天国の乱の鎮圧を命じます。欽差大臣となった林則徐は、任地に赴く途中で病死。65歳でした。
太平天国の乱はその後も続き、同時に発生したアロー戦争とも相まって、清王朝に大打撃を与えます。なんとか反乱を抑えた清王朝でしたが、1894年の日清戦争敗北後、一気に弱体化。1911年の辛亥革命で滅亡します。
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