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世界初の社会主義革命を成功させた「ウラジーミル・レーニン」を元予備校講師がわかりやすく解説

「四月テーゼ」

封印列車でペトログラードに戻ったレーニンは、4月4日に「四月テーゼ」を発表。4月7日付のボリシェヴィキ機関紙『プラウダ』に掲載されました。「四月テーゼ」は、「現下の革命におけるプロレタリアートの任務」という論文の通称です。

「四月テーゼ」の内容は、帝国主義の打倒社会主義国家建設、二月革命で成立した臨時政府との対決、ドイツなどとの即時停戦を訴えるものでした。その上で、レーニンは「すべての権力をソヴィエトへ!」と訴えます。

ソヴィエトとは、ロシア革命の中で生まれた労働者や兵士の代表機関のことですね。帰国当初は孤立していたレーニンですが、臨時政府の目指す議会制民主主義ではなく、ソヴィエトによる社会主義国家建設という彼の考えを徐々に浸透させていきました。

七月騒動と十月革命

1917年7月、レーニンは革命の主導権を握るべく行動します。レーニンは大規模デモを実行して臨時政府を追い込もうとしました。それに対し、臨時政府はケレンスキーが首相となり、レーニンらボリシェヴィキへの弾圧を強化します。ケレンスキーはレーニンをドイツのスパイだと断じて逮捕しようとしました(七月騒動)。

臨時政府の弾圧を逃れるため、レーニンはフィンランドに亡命します。そこからひそかに首都ペトログラードに舞い戻ったレーニンはボリシェヴィキによる武装蜂起を計画しました。

ロシア国民は、戦争を止めようとしない臨時政府に対し嫌気がさしていました。国民世論の変化を察したレーニンは1917年11月(ロシア暦10月)、臨時政府を倒す革命を実行します。ケレンスキーはロシアから亡命し、レーニン率いるソヴィエトが全権力を握りました(十月革命)。

革命後のレーニン

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十月革命でロシアの権力を握ったレーニンはドイツとブレスト=リトフスク条約を結び、第一次世界大戦から離脱します。しかし、これを認めない国内の反対派や、反対派を支援する外国は軍隊を送ってロシア革命に干渉しました。レーニンは干渉戦争に勝利するため戦時共産主義を実施、かろうじて、内戦や干渉を退けます。その後、疲弊した国内経済を回復させるため新経済政策(ネップ)を実施しました。

第一次世界大戦離脱の離脱

1917年11月、政権を握ったレーニンは、平和に関する布告を発表しました。レーニンは第一次世界大戦の全交戦国に対し、「無賠償」「無併合」による戦争の即時終結を訴えました。同時に、民族自決の原則とあらゆる秘密条約の破棄も宣言しました。

これまで、ロシアとともにドイツと戦ってきたイギリス・フランス・アメリカなどの連合国は平和に関する布告に反対。レーニンの政権を認めようとしませんでした。同時に、連合国はロシア革命に対し干渉することを決定。連合国は日本に対しシベリアへの出兵を要請しました。

ドイツは、レーニンの呼びかけに応じ、ソヴィエトと停戦交渉を開始します。1918年3月、ドイツとソヴィエト=ロシアはブレスト=リトフスク条約を結びました。レーニンはバルト三国やポーランドなどを放棄することで、大戦からの離脱を果たします。

内戦や干渉戦争に勝利するため、戦時共産主義を実施

レーニン率いるソヴィエト政府を認めない人々は、オムスクやサマーラといった地方都市で反ソヴィエトの独自政府を作ります。反革命勢力は旧軍人らを中心とする帝政派、反社会主義のリベラル派、ボリシェヴィキに排除された社会革命党(エスエル)など雑多な人々の集合体でした。

これらの反革命勢力は、徐々にソヴィエト政権を包囲します。また、連合国は反革命勢力を支援する対ソ干渉戦争を行いました。対ソ干渉戦争の中で最大のものは、日本が中心となって行ったシベリア出兵です。

ソヴィエト政権側はトロツキーを中心として赤軍を編成。赤軍は反革命勢力やロシア領内に攻め込んできた外国軍と激しく戦います。レーニンは赤軍を支援するため、物資や食料を農民から強制的に徴発する戦時共産主義体制をとりました。

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