満州事変の勃発
1931年9月18日。関東州の警護を任されていた関東軍の謀略によって南満州鉄道の線路が爆破される柳条湖事件が起こることに。これを契機に満洲事変が勃発していき満州は満州国として日本人の独断にてかってに満州国が建国されることになりました。
この日本の満洲国建国に国際連盟はリットン調査団を派遣。日本の独断行動と判断する結果をまとめて日本にはある程度譲歩するものの、日本にたいして撤退勧告案をだすことに。これに日本は不服として国際連盟を脱退。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいくこととなります。
また1932年5月には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が起こり政党政治は終焉を迎え日本はここから一気に軍国化を突き進んでいくことになりました。
また軍部内でも天皇による親政を目指す皇道派と財閥との協力を目指す統制派で対立。1936年に皇道派の将校たちが「昭和維新」をスローガンとして斎藤実内大臣や高橋蔵相らを射殺した二・二六事件が起こりました。
この二・二六事件はあっさり鎮圧されてしまいましたが、これによって統制派の勢力が大きくなっていくようになります。
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日中戦争の始まり
日本と中国の関係が徐々に悪化していく中で中国の北京に駐留していた日本軍が中国軍に攻撃されたことを口実として盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突。これがずるずると続いていきさらには第二次上海事件などといった中国人による日本人虐殺事件なども起こったことによって日本は中国に侵攻を開始。いわゆる日中戦争が始まったのです。
この日中戦争は初期は日本軍の怒涛の進撃によって日本軍は中国沿岸部を確保。さらには中国の首都である南京も陥落させていき日本軍は戦争を優位に進めていきます。しかし、中国の広大な領土に苦戦していくようになっていき、最終的には戦線は停滞。
日本国内でも国内の物資を戦争の前線に送り出すために日本人の思想と物資を統制していくようになり、国民の全ての物資を政府が決めることができるというとんでもない法律である国家総動員法が成立することになりました。さらには前線は停滞。さらにはアメリカとイギリスとの関係も悪化していくようになり、日本はどんどん苦境に陥ることになります。日本の内閣は近衛文麿・平沼騏一郎・林銑十郎といった形でコロコロと変わっていくようになりました。さらには満洲では国境問題によって日本とソ連がノモンハンで衝突。
日本は大損害を被り日本の敗北で講和することになりました。このように多方面にて問題を抱えることとなった日本。そして日本はアメリカとの対決に突入していくことになるのです。
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