日本の歴史昭和

戦後日本の政治の原則「55年体制」はどんな体制?わかりやすく解説

保守合同の流れ

革新勢力がもたついている一方で保守勢力もこのころ集合離散を繰り広げていくことになります。

終戦直後の日本では革新勢力が大躍進しており、保守勢力は日本を敗戦に導いてしまった軍国主義の始まりとして国民から敬遠されていました。しかし冷戦がにわかに加熱している最中日本で社会主義勢力の台頭してもらったらアメリカからしても日本からしてもとても困る事態となってしまいます。

そこで戦前の日本の二大政党として名を馳せていた立憲政友会と立憲民政党のそれぞれの政治家が統一した保守政党を確立していこうとする動きが見られていくようになっていったのでした。

保守勢力は日本進歩党、日本自由党らがあり基本的には吉田茂と鳩山一郎がトップとして活動していましたが、社会党が統一したことを知ると保守勢力も急いで統一するべきだと言う意見が出始めていき1955年に自由党と民主党が合併。自由民主党が成立したのでした。

創設当時は吉田茂や吉田茂の教え子(佐藤栄作など)が参加しないなど少しごたごたがありましたが、鳩山一郎が引退したことで保守勢力としての地位を確立。直後の総選挙にて過半数を獲得するなど保守派による単独政権が完成したことによって55年体制が確立されたのでした。

55年体制の経過

55年体制の初期の頃は石橋湛山・岸信介などといった総裁が誕生。石橋湛山は病気が理由ですぐに辞任しましたが、岸信介は1960年に圧倒的な自民党優勢を盾として新安保条約を強行採決。これが日本社会党との対立を招くことになりましたが、岸信介はこの安保条約が可決されると辞任。後に池田勇人が総理に就任して高度経済成長を推し進めていくことになります。こうした中、社会党は高度経済成長の歪みを指摘して大都市などで東京都の美濃部亮吉知事といった革新自治体を次々と成立。高度経済成長で起こった公害や都市問題に対して対応していました。

しかし、それでも自民党の一方優勢は変わらずその後の佐藤栄作時代では8年にも及ぶ長期政権が誕生することになりました。

こうした経済の発展とともに経済界から支持を受けている自民党は安定成長を遂げることになったのです。

ミニ政党の登場

日本が安定成長を遂げていくようになると日本人は良くも悪くも政治に関心を持たなくなっていき、自民党の圧倒的有利は変わっていませんでした。しかし、自民党内での派閥抗争が代わりに起こることになり、いわゆる三角大福の時代がやってくることになります。

一方で野党勢力は社会党一強の時代ではどんどん無くなっていき、例えば1964年に公明党が成立したり、社会党の分派が独立して民社党となったり、これまで議席をかろうじて獲得していた日本共産党が一気に勢力を伸ばし始めたりするなど野党のバリエーションも豊富となっていくことになりました。その結果社会党の議席数は選挙が行われていけば行くほど減っていくことになっていき、結果的には中選挙区制度でなんとか100議席は獲得していたのにもかかわらずそれすらも獲得できなくなってしまったのでした。

社会党の衰退

社会党の苦境はここまででは止まりません。1970年に入ると日本赤軍や連合赤軍といった急進左翼たちが過激なテロを起こしていくようになり、左翼に対するイメージが日に日に悪いものへとなっていくことになりました。

さらに、社会党内での分裂も日に日に増していくようになってしまい、支持団体もどんどん離脱していくことになりました。

そのため、日本社会党は支持基盤を労働組合のみに絞るようになり、なるべく社会党の地盤が安定している選挙区以外では総選挙のたびに候補者を減らす消極策を取るようになりました。このような消極的な体制を敷いていたため社会党は選挙のたびごとに勢力を衰退させ長期低落傾向と呼ばれる停滞期に突入することになりました。

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