天王寺の戦いと第一次木津川口の戦い
石山本願寺は一発逆転を目指そうと1576年に石山本願寺包囲の重要拠点であった天王寺砦を本願寺の勢力が攻撃。これは石山本願寺を包囲した信長に対する反抗であり、1万の兵を持って包囲軍の主将を討死に追い込み、さらには信長に怪我を負わせるなどの戦果をあげました。
しかし、完全に勝利することは叶わず戦争は持久戦に突入。石山本願寺は確かに篭城には適している場所であり、長年の防御にはなんとか耐えれる場所だったのですが、いかんぜん大量の農民を抱え切れるだけの兵糧がないと話になりません。そこで本願寺と仲が良かった毛利氏に頼み本願寺まで兵糧を届けてもらっていたのです。
毛利の軍勢は村上水軍などを使い700から800艘で大量の兵糧を大坂に届けます。織田軍はこの兵糧の搬入を防ぐためにすぐさま300余艘で応戦しますが毛利水軍に大敗。
本願寺に兵糧・弾薬を届け、籠城を完璧なものにしました。これによって信長は本願寺に対して決定的な攻撃を与えられずにただ時が経っていくことになります。
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第二次木津川口の戦いと石山戦争の終結
毛利水軍との敗戦ののち、信長は九鬼水軍のトップであった九鬼嘉隆にたいして毛利水軍の攻撃に耐えられる舟の建造を命じていわゆる鉄鋼船を建造。これを用いて再び兵糧を入れようとする毛利水軍に再戦を挑んでいくことになります。
信長の水軍は再び石山本願寺を包囲し、兵糧を二度と入れないように閉鎖。毛利水軍は600艘を繰り出して海路をこじ開けようとしましたが、鉄甲船の攻撃によって毛利水軍は甚大な被害を受け、防衛を成功。いわゆる第二次木津川口の戦いによって毛利水軍を撃破したのでした。
これによって俄然に有利となった信長はついにこの11年にもわたって断続的に続けられてきた石山戦争に蹴りをつけるために正親町天皇を仲介役として信長と石山本願寺は講和。
信長は「これまでのことは全てチャラにする」ということを条件に加えて本願寺の勢力が石山本願寺から退去することに合意。
11年にもわたる石山戦争は終わりを迎えたのでした。
その後の石山本願寺
石山本願寺との和睦の後、顕如はすぐさま紀伊に退去しましたが、教如を始めまだ信長に抵抗する勢力もまだいました。
教如を軸としてまた信長に反抗するかと思われたのですが、その直後に本願寺は三日三晩炎上。意図して燃やしたのかそれとも単なる事故であったのかはいまだに謎ですが、これによって石山本願寺は焼失してしまうことになりました。
その後、石山本願寺の跡地は信長亡き後に秀吉によって大坂城が建造。いわゆる大坂の町の原点を作り出しました。
また、本願寺は東西に分裂しながらも西本願寺と東本願寺それぞれである程度の権威を持つ宗教勢力として残り今に至っているのです。
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石山本願寺は戦国の歴史に影響を与えた
石山本願寺が率いる浄土真宗は信長だけではなく徳川家康や上杉謙信も恐れていた存在でした。石山本願寺は石山戦争後に破却されることになったのですが、その後に豊臣秀吉が大坂城を建てたということを考えると石山本願寺はとても重要な拠点だったのですね。