近世から近代:度重なる戦争とナポレオンの侵略
image by iStockphoto
ドイツはいつ頃できた国なのか……東フランク王国が誕生した年なら843年、神聖ローマ帝国からなら962年という解釈になりますが、この頃はまだ、現在のドイツと領土の面積も国境も異なっていました。近世のドイツでは、周辺諸国との争いや国内の宗教闘争などが頻発し、激動の時代が続きます。
マルティン・ルターの「宗教改革」とは
中世末期、カトリック教会は贖宥状(しょくゆうじょう・免罪符)と呼ばれる「罪の許しをお金で買って救いを求める証明書」を販売して収入を得ていました。
教会もいろいろ物入りでしょうし、ほどほどならよいのかもしれませんが……。
16世紀に入った頃、ローマ教皇レオ10世が大聖堂の修復費用などを捻出するため、ドイツの農民たちに贖宥状を売りつけ、露骨にお金を巻き上げ始めます。すっかり金づるになってしまったドイツ。「ドイツはローマの牝牛だ」などと揶揄されるようになってしまうのです。
この状況に意義を唱えたのが、ドイツの神学者マルティン・ルターです(95ヶ条の論題)。
ルターの発言はドイツ国内に大きな影響を与え、教会の改革運動へとつながっていきました。これらの動きを「宗教改革」と呼んでいます。
こちらの記事もおすすめ
宗教改革を起こした「マルティン・ルター」とは?世界史にどう影響したの?神学や歴史の観点から解説 – Rinto~凛と~
ヨーロッパ全域に影響を与えた「三十年戦争」
ルターの宗教改革からおよそ100年後、1618年から48年まで続いた宗教戦争が「三十年戦争」です。
この戦争はドイツを中心に、オーストリアやフランス、スペインなどを巻き込んだ大規模なものとなりました。
発端は、ボヘミア王フェルディナント2世による新教徒への圧迫。当時ドイツでは、旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)に分かれ、対立状態にありました。
戦争はヨーロッパ各地で展開しましたが、主な戦場はドイツ国内。この戦争の影響でドイツの国土は荒廃し、庶民は疲弊。皇帝の権力も失墜して、貴族たちの反乱が相次ぐという事態に陥ってしまいます。
三十年戦争の終わりが見えてくると、ドイツ国内のいくつかの領邦(独立的な有力諸侯の領地)が台頭。半ば独立国のような、大きな権力を持った諸侯や、産業が盛んな自由都市などが次々と誕生していきます。
こちらの記事もおすすめ
多くの国がかかわり、初めての国際条約になった三十年戦争の結末 – Rinto~凛と~
プロイセン王国の成立と神聖ローマ帝国解体
ドイツ国内の中に次々と誕生していく小国や中立都市。その中で特に目立つ存在だったのがプロイセンでした。
ドイツの北東部、バルト海に近い地域に建国。1701年にはプロイセン王国となり、ドイツ国内最大の領地を持つ王国へと成長を遂げます。
18世紀後半、お隣フランスではフランス革命が勃発。これにプロイセンやオーストリアが少々口出しをしたため、フランス革命政府が宣戦布告。フランス革命戦争へと発展してしまいます。
革命戦争に勝利したフランスは領地を拡大。さらに19世紀初頭、フランスの英雄ナポレオン・ボナパルトがドイツに侵攻してきます。1806年、ナポレオンが「ライン同盟」を結成。ドイツ南西部にある16もの領邦が神聖ローマ帝国を離脱して同盟に加わったため、神聖ローマ帝国は事実上消滅となりました。
ライン同盟はナポレオンロシア遠征失敗とともに失速。1813年に消滅しています。
こちらの記事もおすすめ
今さら聞けないフランス革命のおおまかな流れ – Rinto~凛と~