小説・童話あらすじ

5分でわかる「サン=テグジュペリ」生涯・名言・代表作品をわかりやすく解説

2-5.会社が倒産しフランスへ

1929年の夏には、ブエノスアイレスのアエロポスタ・アルヘンリーナ社の営業所支配人に任命され、パタゴニア線の開拓に励みます。1930年に砂漠での功績を称えられ「レジオンドヌール勲章・シュヴァリエ章」をフランス政府から与えられました。翌年に将来の伴侶「コンスエロ・ゴメス・カリヨ」と出会ったのです。彼女の気ままな性格は、『星の王子さま』のバラのモデルになっています。

しかし、アロエポスタル社は世界恐慌による金融市場崩壊のあおりを受け、エール・フランスに吸収されたのです。社長以下アントワーヌなど上層部は責任を取り退任。彼は1931年1月に、フランスに帰国します。この時カバンの中には、『夜間飛行』という小説の原稿が入っていました。

ちょっと雑学

キャップ・ジュビー駐在中に飼っていたフェネックギツネは、『星の王子さま』に出てくるキツネのモデルになっています。キツネは自分の存在が、「君にとってオンリーワンになるか、10万匹もいるただのキツネになるか…。」と語るシーンからは、お互いに依存しあい、どれだけ大切に育てていたかを想像できます。

他にも、バオバブの木はカサブランカ~ダカール線を開設の時に、立ち寄ったセネガルでの思い出だとか。『星の王子さま』のストーリーや登場する人物などのほとんどは、彼の記憶から生まれたんですよ!

3.作家としての素顔は?

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Bibliothèque et Archives nationales du Québec, Fonds Bernard Valiquette – lapresse.ca, パブリック・ドメイン, リンクによる

兄弟に劇の脚本を書いたり、母に何度も手紙を書いたり、13歳の時には級友と新聞を作り詩の欄を担当するなど、常に文筆と接しています。航空会社に勤務したころから小説を書き始め、飛行家時代の生々しい経験による作品は、人間の崇高さ、勇気、知恵などを盛り込み、多くの読者を虜にしたのです。「サンテックス」との愛称で親しまれる、彼の作家としての生き様を見てみましょう。

3-1.デビュー作は実体験から

1926年4月にアドリエンヌ・モニエという書店主が出版する、『銀の船』に「飛行士」という短編を載せます。公の場に登場した瞬間で、彼の将来性を認めたジャン・プレヴォーがガストン・ガリマールに推薦し、4冊分の著書契約という大きなチャンスを得たのです。粗放な性格から、原稿が遅れ契約は反故になります。

先ほど触れた1929年の処女作『南方郵便機』は、このガリマール社から発表されました。序文を書いた人気作家のアンドレ・ブークレは、文中で「文筆家ではない」ことを強調します。飛行家の実体験を描いた作品と前面に押し出すことが、最善策と踏んだからのようです。

3-2.賞は受賞したものの…とほほ

1931年に出版した『夜間飛行』は激売れをするも、評論家たちは決して文学作品とは認めません。あくまで、飛行家の書いた小説に過ぎないとしたのです。しかし、転機が訪れ、酷評した評論家たちのツンと尖がった鼻柱をへし折るほどの朗報”が舞い込みます。代表作の『贋金(にせがね)づくり』で「メタフィクション」の先駆とされた「アンドレ・ジッド」に絶賛され、名誉あるフェミナ賞を受賞したのです。

でも、文学を専門に学んでいないアントワーヌは、自身の作品への正当性に自信が持てなかったとか。「執筆中は自信を持てていても、いざ完成すると肩透かし。」絶えず自分の文章を書き直していたようです。

3-3.文学への思い

彼の仕事上の信念は「謙虚さ」でしたが、「何か作家として主張できる武器を持たなくては」と強く感じていたようです。机上で学んだ文学を、笠に着る奴が大嫌いだったのでは?一心不乱に生きた自分の人生を素直に作品にできたのは、学がなくても自分の人生に誇りがあったからでしょう。

彼が残した多くの名言の中に「書くことを学ぶ必要はない。でも、見ることは学ぶ必要はある。書くことは一つの結果である。」があります。「机上での学問ではなく、自身の目でしっかり見極め、自分や周囲を理解し選択する手段だ」といいたかったのでしょう。

4.交錯する孤独と栄華と夢

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作家活動を続けながら、飛行機乗りとしての人生を送ります。作家としては、人間の存在価値と意味を問う、パワーの漲る作品を数多く書きました。また、人間の豊かな愛情や連帯に、新感覚のヒロイズムの可能性も見出しています。政治的な問題から、アメリカへ亡命。そして、彼の運命を左右する第二次世界大戦へと突入します。

4-1.パイロットへの復帰と作品の映画化

1933年にフランスへ帰国し、水上飛行機のテストパイロットの職に就きますが、飛行機乗りになって3度目の事故を起こします。死と背中合わせだった飛行家の宿命とはいえ、一歩間違えれば溺死するほどの大事故だったようです。

翌年転職し、新会社エール・フランスの宣伝部に勤めます。同時期にフランス~アフリカへの定期路線の体験を描いたデビュー作『南方郵便機』の映画化が決まり脚本を書きました。その後『夜間飛行』の脚色を担当した映画『夜間飛行(ナイト・フライト)』が公開となるなど、多忙な日々を送ります。

4-2.サハラ砂漠で生死を彷徨

一生涯の親友レオン・ベルトとの出会いなど順風満帆に見えた彼の人生は、またもや飛行機事故で歯車が狂います。1935年12月に行われたパリ=サイゴン間の長距離レースに参加しますが、エジプト上空で飛行機のコネクティングロッドが破損し、12月29日にリビア砂漠に不時着しました。

整備士のアンドレ・プレヴォーと共に、灼熱の砂漠を5日間も彷徨歩きます。水も食料もなくなり、次第に死が頭をよぎるようになったのです。運よくベドウィンの商隊に、危機一髪で救われます。死を目前に、“砂漠の外に自分を待っている人がいてくれ、その人のために生還しなければ”と思ったとか。この経験から、愛する人への責任を通し、目には見えない「愛」を深く感じたようです。

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