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5分でわかる「サン=テグジュペリ」生涯・名言・代表作品をわかりやすく解説

『星の王子さま』の著者サン=テグジュペリは、フランス人作家としてはもちろん、飛行家に発明家、哲学者と、幅広いジャンルで活躍しています。パイロットと小説家という華々しい世界で生きつつも、飛行機事故や戦争への参加、アメリカへの亡命など、彼の人生は波乱万丈でした。『星の王子さま』の作者「サン=テグジュペリ」の生涯をわかりやすく解説しましょう。

1.サン=テグジュペリの生い立ちは?

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サン=テグジュペリの幼少期は、他の子どもと少し違っていたようです。好奇心旺盛な子で『星の王子さま』を彷彿とさせる大人が困るような質問ばかりしており、10歳にして人生の未来予想図を完成させたとか。それでは、彼の生い立ちをご紹介しましょう。

1-1.愛情に包まれ誕生

サン=テグジュペリは、1900年6月29日にフランスのリヨンで、ジャン・ド・サン=テグジュペリ伯爵を父とする5人兄弟の上から3番目の子として誕生しました。

リヨンといえば、フランス南東部に位置する第2の都市で、「美食の街」として有名ですね。石畳の道が郷愁をそそる旧市街は、「リヨン歴史地区」として世界遺産に登録されています。

本名は「アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ」と、とっても長い名前です。4歳になるころの1904年3月14日に、父がラ・フー駅のホームで脳卒中により急死すると、一家は母方の大叔母ド・トリコー伯爵夫人を頼り、ビュジェ地方のサン=モーリス=レマンスにある大きな城館に移ります。父が早くに亡くなりましたが、比較的恵まれていたようです。

1-2.お坊ちゃまとして育つ幼少期

この館でのアントワーヌ(サン=テグジュペリ)は、2人の姉と弟と妹を従えていくつもの部屋を探索したようです。兄弟の中では親分的な存在で、反発を許さない我の強い子でした。階段の手すりから飛び降りたり、気が遠くなるほど長い廊下を滑ったり、大好きな庭園の奥深くに潜り込んだりと、人の気を引くかのように無謀な行為を繰り返したとか。

人の意見に耳を貸さないなどと問題が多い少年でしたが、明るくユニークな遊びを考え出す彼を、兄弟は「太陽王」とのニックネームで呼んだようです。暇なときは、ずば抜けた観察力を活かし、各姉弟妹たちの性格に合った配役で、お遊び芝居の脚本を書きました。

母がアンデルセン童話の読み聞かせをよくしており、これがアントワーヌの作家人生の原点だったようです。このようにノビノビ育ちますが、騒々しく落ち着きのない性格は、大人になっても治りませんでした。

1-3.学校に通うアントワーヌ

9歳になると、一家はル・マンに引っ越しイエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院に通います。学業をそっちのけで詩情にふけっており、授業中でも度々「月を夢想する」ようにボーとしていたようです。この夢想は、将来名作家となる上で必要だったのかも。天才には夢想行動を起こす人が多く、レオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインなどもあったようです

文学好きの少年へと成長した14歳のころに古典と出会います。バルザックやドストエフスキーなどを読み、詩やオペレッタの台本を書くなど文学活動に目覚めた時期でした。残念ながら、成績は最下位にまで落っこちています。

1-4.飛行機で空を飛ぶ

小さなころに蒸気機関車に乗ったときは、すごく喜び感動したようです。この経験から飛行機で旅することを夢見、木枠にシーツを張った羽を縦横に自転車につけて飛行機遊びをしていたとか。大人でもまだ、空を飛ぶことを夢見ていた時代です。アントワーヌ少年が空を飛ぶことはありませんでした。

10歳足らずで飛行機製作を断念しますが、12歳の時に城館から6km先のアンベリューの小さな飛行場で、パイロットのウロブレウスキーの操縦により念願だった空を飛びます。その時、彼は母の同意は得ていると大ウソをついたのです。飛行場の上空2周の代償は、母からのビンタでした。このころの飛行機はまだ危険がつきもので、乗せてくれたウロブレウスキー兄弟は、1年半後に飛行機事故で死亡しました。

1919年には、海軍兵学校の口頭試験を受験するも失敗し、子どものころから造園家や建築家になると思っていたアントワーヌは、美術学校の建築家に入学します。

2.飛行機乗りになった彼の活躍は?

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1921年4月に兵役で、空軍を志願し入隊します。飛行家を目指し、努力し免許を取得。退役後は、愛に生き色々な仕事に就きました。ちょっとだけ、彼のロマンティックな一面が見え隠れします。夢の飛行機乗りとなってからの、彼の人生も波瀾万丈です。それでは、青年期を見てみましょう。

2-1.兵役で空軍に入隊

空軍への従軍は叶い、2年間の兵役に就きました。民間航空の飛行免許を持たないアントワーヌは、ストラスブール近郊のノイホフにある、第2航空聯隊に地上勤務員として編入され、飛行機の整備や滑走路の整地などを担います。

飛行機乗りになりたかったアントワーヌは、メカニックとして地上勤務をしながら母からの出資で、操縦の講座を受講しました。ファルマン40機で操縦訓練を行い、半月の講義と2時間半の飛行訓練で、初めてソッピース機での飛行を許されたようです。

実は民間航空のライセンスを取るのに、フライト100回分の2000フランもかかってしまったとか。

夢の操縦士になれますが、自分勝手な操縦で、任務ではなく愛好者が遊ぶような飛行でした。幼少期からの粗放な性格や支持を守らない単独行動的な操縦術で、壊した飛行機は数え切れず。「飛行機壊し屋」との渾名をつけられます。

2-2.軍人パイロットの誕生

1921年7月に37空軍戦闘部隊に転属した5ヶ月の間に、モロッコのカサブランカで軍人パイロットの免許を取得しました。しかも、予備役の士官候補生の試験にまで、合格したのです。

母の手紙には、「ぼくは6回の着陸を成功させました。上手に乗れたと自分でも思います。規定の飛行距離から毎回少しずつ距離を伸ばし、道草して帰還しているのです。」と書いています。たぶん、本当に飛行機好きだったのでしょうね!でも、飛行機に乗っていないときは、寂しくホームシックにかかったとか。

翌年10月に、予備役少佐に任命後、ル・ブルジェにある34飛行部隊に配属され、飛行家としての人生が始まりました。この時、空の上から初めて、フランス本土を見たようです。操縦士の見る地上の様子は、『飛行士』に書かれています。

2-3.愛に生きるも…。夢の飛行機乗りㇸ復帰

1923年1月に、ル・ブルジェ飛行場で、頭蓋骨を骨折するほどの事故を起こします。しかも操縦資格もない、アンリオHD14型機を操縦していたのです。規律違反の処分は、2週間の飛行禁止でした。

しかし、婚約していたルイーズ・ド・ヴィルモランの家族に反対され、1923年に空軍を除隊します。パリで会計係に就職するも、自動車の販売員など転職を繰り返すのです。空軍で飛行機に乗る道を諦めてまで付き合ったルイーズとは結婚していません。大好きな母に大目玉を食らってまで、空を飛ぶことに情熱を持っていたのに

1926年にラテコエール路線会社に雇われて、民間航空界で整備士として働き、親友のジャン・メルモーズとアンリ・ギヨメと出会います。初飛行は、スペインのトゥールーズ~アリカンテ線でした。ギヨメは教科書に載っていない、飛行家が生き延びるための心得を伝授しました。

2-4.英雄となる

1927年には定期郵便飛行に従事し、トゥールーズ~カサブランカ線、カサブランカ~ダカール線なども担当。アエロポスタル総合会社と改名し、飛行家たちが給油&休息をする中継地の、スペイン領サハラ砂漠のキャップ・ジュビーへ飛行場長として赴任します。

不時着した飛行家にムーア人たちが、身代金をかける危険な領域で17ヶ月も暮らすのです。常にムーア人からの危険に晒され、不眠と戦うために『南方郵便機』の原稿を書き始めました。不時着した飛行家たちの捜索と救出交渉のためアラブ語を学び、見事に遭難者たちの救出に成功したのです。こんな偉業を成し得たのに、彼は「称賛に値しない。」と断言したとか。

地上での彼は死んだも同然 だったのです。砂漠の美しさに酔いしれるも、絶望的な孤独に押しつぶされうつとなります。嫌というほどの幻滅感を味わっていたのです。

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