5分でわかる「サン=テグジュペリ」生涯・名言・代表作品をわかりやすく解説
- 1.サン=テグジュペリの生い立ちは?
- 1-1.愛情に包まれ誕生
- 1-2.お坊ちゃまとして育つ幼少期
- 1-3.学校に通うアントワーヌ
- 1-4.飛行機で空を飛ぶ
- 2.飛行機乗りになった彼の活躍は?
- 2-1.兵役で空軍に入隊
- 2-2.軍人パイロットの誕生
- 2-3.愛に生きるも…。夢の飛行機乗りㇸ復帰
- 2-4.英雄となる
- 2-5.会社が倒産しフランスへ
- 3.作家としての素顔は?
- 3-1.デビュー作は実体験から
- 3-2.賞は受賞したものの…とほほ
- 3-3.文学への思い
- 4.交錯する孤独と栄華と夢
- 4-1.パイロットへの復帰と作品の映画化
- 4-2.サハラ砂漠で生死を彷徨
- 4-3.生死を彷徨事故とアカデミー賞受賞
- 5.サン=テグジュペリの晩年は?
- 5-1.命がけの偵察飛行
- 5-2.亡命中も執筆力でハーレムに
- 5-3.サン=テグジュペリの最期の任務とは?
- 5-4.彼の死はドイツ軍による撃墜だった?
- 6.サン=テグジュペリの名言
- 7.サン=テグジュペリのおすすめ本
- 7-1.『夜間飛行』
- 7-2.『人間の土地』
- 7-3.『星の王子さま』
- 永遠の名作『星の王子さま』の著者サン=テグジュペリの一生は死と隣り合わせだった
この記事の目次
1.サン=テグジュペリの生い立ちは?
image by iStockphoto
サン=テグジュペリの幼少期は、他の子どもと少し違っていたようです。好奇心旺盛な子で『星の王子さま』を彷彿とさせる大人が困るような質問ばかりしており、10歳にして人生の未来予想図を完成させたとか。それでは、彼の生い立ちをご紹介しましょう。
1-1.愛情に包まれ誕生
サン=テグジュペリは、1900年6月29日にフランスのリヨンで、ジャン・ド・サン=テグジュペリ伯爵を父とする5人兄弟の上から3番目の子として誕生しました。
リヨンといえば、フランス南東部に位置する第2の都市で、「美食の街」として有名ですね。石畳の道が郷愁をそそる旧市街は、「リヨン歴史地区」として世界遺産に登録されています。
本名は「アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ」と、とっても長い名前です。4歳になるころの1904年3月14日に、父がラ・フー駅のホームで脳卒中により急死すると、一家は母方の大叔母ド・トリコー伯爵夫人を頼り、ビュジェ地方のサン=モーリス=レマンスにある大きな城館に移ります。父が早くに亡くなりましたが、比較的恵まれていたようです。
1-2.お坊ちゃまとして育つ幼少期
この館でのアントワーヌ(サン=テグジュペリ)は、2人の姉と弟と妹を従えていくつもの部屋を探索したようです。兄弟の中では親分的な存在で、反発を許さない我の強い子でした。階段の手すりから飛び降りたり、気が遠くなるほど長い廊下を滑ったり、大好きな庭園の奥深くに潜り込んだりと、人の気を引くかのように無謀な行為を繰り返したとか。
人の意見に耳を貸さないなどと問題が多い少年でしたが、明るくユニークな遊びを考え出す彼を、兄弟は「太陽王」とのニックネームで呼んだようです。暇なときは、ずば抜けた観察力を活かし、各姉弟妹たちの性格に合った配役で、お遊び芝居の脚本を書きました。
母がアンデルセン童話の読み聞かせをよくしており、これがアントワーヌの作家人生の原点だったようです。このようにノビノビ育ちますが、騒々しく落ち着きのない性格は、大人になっても治りませんでした。
1-3.学校に通うアントワーヌ
9歳になると、一家はル・マンに引っ越しイエズス会のノートルダム・ド・サント・クロワ学院に通います。学業をそっちのけで詩情にふけっており、授業中でも度々「月を夢想する」ようにボーとしていたようです。この夢想は、将来名作家となる上で必要だったのかも。天才には夢想行動を起こす人が多く、レオナルド・ダ・ヴィンチやアインシュタインなどもあったようです。
文学好きの少年へと成長した14歳のころに古典と出会います。バルザックやドストエフスキーなどを読み、詩やオペレッタの台本を書くなど文学活動に目覚めた時期でした。残念ながら、成績は最下位にまで落っこちています。
こちらの記事もおすすめ
【キリスト教】宗教オンチの日本人も5分でわかる!「イエズス会」って何? – Rinto~凛と~
1-4.飛行機で空を飛ぶ
小さなころに蒸気機関車に乗ったときは、すごく喜び感動したようです。この経験から飛行機で旅することを夢見、木枠にシーツを張った羽を縦横に自転車につけて飛行機遊びをしていたとか。大人でもまだ、空を飛ぶことを夢見ていた時代です。アントワーヌ少年が空を飛ぶことはありませんでした。
10歳足らずで飛行機製作を断念しますが、12歳の時に城館から6km先のアンベリューの小さな飛行場で、パイロットのウロブレウスキーの操縦により念願だった空を飛びます。その時、彼は母の同意は得ていると大ウソをついたのです。飛行場の上空2周の代償は、母からのビンタでした。このころの飛行機はまだ危険がつきもので、乗せてくれたウロブレウスキー兄弟は、1年半後に飛行機事故で死亡しました。
1919年には、海軍兵学校の口頭試験を受験するも失敗し、子どものころから造園家や建築家になると思っていたアントワーヌは、美術学校の建築家に入学します。
2.飛行機乗りになった彼の活躍は?
image by iStockphoto
1921年4月に兵役で、空軍を志願し入隊します。飛行家を目指し、努力し免許を取得。退役後は、愛に生き色々な仕事に就きました。ちょっとだけ、彼のロマンティックな一面が見え隠れします。夢の飛行機乗りとなってからの、彼の人生も波瀾万丈です。それでは、青年期を見てみましょう。
2-1.兵役で空軍に入隊
空軍への従軍は叶い、2年間の兵役に就きました。民間航空の飛行免許を持たないアントワーヌは、ストラスブール近郊のノイホフにある、第2航空聯隊に地上勤務員として編入され、飛行機の整備や滑走路の整地などを担います。
飛行機乗りになりたかったアントワーヌは、メカニックとして地上勤務をしながら母からの出資で、操縦の講座を受講しました。ファルマン40機で操縦訓練を行い、半月の講義と2時間半の飛行訓練で、初めてソッピース機での飛行を許されたようです。
実は民間航空のライセンスを取るのに、フライト100回分の2000フランもかかってしまったとか。
夢の操縦士になれますが、自分勝手な操縦で、任務ではなく愛好者が遊ぶような飛行でした。幼少期からの粗放な性格や支持を守らない単独行動的な操縦術で、壊した飛行機は数え切れず。「飛行機壊し屋」との渾名をつけられます。
2-2.軍人パイロットの誕生
1921年7月に37空軍戦闘部隊に転属した5ヶ月の間に、モロッコのカサブランカで軍人パイロットの免許を取得しました。しかも、予備役の士官候補生の試験にまで、合格したのです。
母の手紙には、「ぼくは6回の着陸を成功させました。上手に乗れたと自分でも思います。規定の飛行距離から毎回少しずつ距離を伸ばし、道草して帰還しているのです。」と書いています。たぶん、本当に飛行機好きだったのでしょうね!でも、飛行機に乗っていないときは、寂しくホームシックにかかったとか。
翌年10月に、予備役少佐に任命後、ル・ブルジェにある34飛行部隊に配属され、飛行家としての人生が始まりました。この時、空の上から初めて、フランス本土を見たようです。操縦士の見る地上の様子は、『飛行士』に書かれています。
2-3.愛に生きるも…。夢の飛行機乗りㇸ復帰
1923年1月に、ル・ブルジェ飛行場で、頭蓋骨を骨折するほどの事故を起こします。しかも操縦資格もない、アンリオHD14型機を操縦していたのです。規律違反の処分は、2週間の飛行禁止でした。
しかし、婚約していたルイーズ・ド・ヴィルモランの家族に反対され、1923年に空軍を除隊します。パリで会計係に就職するも、自動車の販売員など転職を繰り返すのです。空軍で飛行機に乗る道を諦めてまで付き合ったルイーズとは結婚していません。大好きな母に大目玉を食らってまで、空を飛ぶことに情熱を持っていたのに…。
1926年にラテコエール路線会社に雇われて、民間航空界で整備士として働き、親友のジャン・メルモーズとアンリ・ギヨメと出会います。初飛行は、スペインのトゥールーズ~アリカンテ線でした。ギヨメは教科書に載っていない、飛行家が生き延びるための心得を伝授しました。
2-4.英雄となる
1927年には定期郵便飛行に従事し、トゥールーズ~カサブランカ線、カサブランカ~ダカール線なども担当。アエロポスタル総合会社と改名し、飛行家たちが給油&休息をする中継地の、スペイン領サハラ砂漠のキャップ・ジュビーへ飛行場長として赴任します。
不時着した飛行家にムーア人たちが、身代金をかける危険な領域で17ヶ月も暮らすのです。常にムーア人からの危険に晒され、不眠と戦うために『南方郵便機』の原稿を書き始めました。不時着した飛行家たちの捜索と救出交渉のためアラブ語を学び、見事に遭難者たちの救出に成功したのです。こんな偉業を成し得たのに、彼は「称賛に値しない。」と断言したとか。
地上での彼は死んだも同然 だったのです。砂漠の美しさに酔いしれるも、絶望的な孤独に押しつぶされうつとなります。嫌というほどの幻滅感を味わっていたのです。