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5分でわかる「ダニエル・デフォー」生涯・名言・代表作品をわかりやすく解説

『ロビンソン・クルーソー』の著者として有名な「ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)」が、小説家として成功したのは晩年のことです。破産や投獄など辛い経験もする、波乱万丈の人生を歩んでいます。クロムウェルの独裁政治後、王政復古に転じ名誉革命を経て、専制政治から立憲君主制へと時代が動いた、変革期の英国でどんな風に生きたのでしょう。今回は、「ダニエル・デフォー」の人生を、わかりやすく解説したいと思います。

1.デフォー波乱万丈の人生の幕開けは?

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経済的にも国際社会においても成長過程にある英国を、不屈の精神で駆け抜けたデフォー!その生涯は波乱に満ちていたようです。今回ご紹介する「ダニエル・デフォー」の幼少期は、災難の連続で政治も安定していない時代でした。10万人もの人々の命を奪い、ロンドンを恐怖に陥れたペストや大火は、デフォー波乱万丈の人生の予兆だったのでしょうか?

1-1.ダニエル・デフォーの誕生

父ジェームズ・フォーはプレスビテリアン(長老派)だったため、出生や洗礼など30歳までのデフォーの記録はほとんどありません。1660年にロンドンのクリプルゲイトで誕生したと推測されています。父はロンドンウオールの側で、獣脂ロウソクの製造業を営んでいました。

1665年に多くの命が失われたペストの大流行で、疲弊したシティ・オブ・ロンドンを、更に大火が襲います。ペスト流行時はシティから郊外へ避難していましたが、デフォーが5歳の時の大火は実際に体験したようです。

大火で燃え尽きたロンドン蘇りの波に乗り、職を変えた父は市民として自由に商業が営める「フリーマン」という市民権を得て大きな成功を収めています。その後、議会の重要メンバーにまでのし上りました。因みに母アリスは、父より階級の高いジェントリー階級の出身です。

ちょっと雑学

デフォーの誕生日を、9月30日とする学者もいます。何の根拠も無いのですが、ロビンソン・クルーソーが難破した日であることから、彼とクルーソーの人生を重ねる心理作用から有力視されたようです。

父のラストネームはフォーなのに、デフォーとなっています。“De”をつけたのには、フランス貴族がよく使い貴族的な響きに好感を持ったからとか。フォーが持つ「敵・反対者・障害」という意味を嫌ったことも起因しているようです。

この名前になるまでには、ダン・フォーやダン・デ・フォーなど、何度も変更しています。1695年ごろから「ダニエル・デフォー」というペンネームに落ち着いたようです。

1-2.デフォーの青年時代

幼い頃、父が国教会から離脱し、非国教徒となります。14歳までの教育は不明で、サリーのドーキングでジェームズ・フィッシャーが、非国教徒(ディセンター)向けに開いた学校で初等教育を受けたようです。

ロンドン北のニューイントン・グリーンのディセンティング・アカデミーで、後に渡米しハーバード大学の副学長となるモートンを師とし、19歳までの5年間英語教育を重視したキリスト教関係の科目を主に学んでいます。幸せなことに教育水準が高いアカデミーだったため、国教会の子供たちの一部もここで学んだとか。

Map of Franz Josef Land showing journeys and discoveries of Frederick G. Jackson, F.R.G.S. - UvA-BC OTM HB-KZL 61 18 38.jpg
Royal Geographical Society – Special Collections of the University of Amsterdam, パブリック・ドメイン, リンクによる

アカデミー時代の地理学が活かされ、後年地理学に傾倒します。非国教徒たちが、オックスフォードやケンブリッジで学ぶことは当時は皆無です。大学はこの2つだけでパブリックスクールに通う余裕も無く、自動的に進学の道は絶たれました。

大学に行ってないことで、『ガリバー旅行記』の著者スウィフトやジョン・ゲイから無学と馬鹿にされたようです。しかし、アカデミーでの教育は軽視されていた近代学科なども学べる環境で、デフォーの実際的・実用的教育論はこの時に培われました。

2.波乱万丈?商人時代のデフォー

アカデミーで宗教について学びますが、卒業後は父の仕事を尊敬していたからか自然の流れか、栄誉ある聖職への道を捨て、兄たちと同じく商売に就きます。ここから早熟な結婚や事業の失敗など、波乱万丈の人生が始まりました。若い頃デフォーは作家ではなく、実業家でありジャーナリストとして活躍しています。

2-1. 聖職を諦め商人に

父は信仰が篤く、デフォーをプレスビテリアンの司祭にしたかったようで、本人も司祭を希望していたものの何故か断念したようです。1709年10月22日の『レビュー』に、「栄誉ある聖職の道をあてがわれるも、違う道へ進んだことは失敗だった」と自身で書いています。実際聖職には就いていませんが、後に執筆する『レビュー』の中に説教をしており信仰は人生の要になりました。

初めての仕事は、22歳の時の靴下などの卸や仲介業で、後にワインやたばこの輸入などにも着手します。また、旅行か商売上で必要だったか不明ですが、ヨーロッパ各地へ出向いており、この旅行経験は後の執筆活動に大きく影響しました。ロビンソンが、「外国へ行きたい」や「世界をかけめぐりたい」と小説の中で何度も語るように、もしかしたらデフォー自身にも放浪癖があったのかも。

2-2.仕事に結婚!幸せだった?

23歳の時、18歳のメアリー・タフリーと結婚をしました。裕福な家に育った彼女は、3700ポンド(2100万円に相当)を持参しています。24歳という若さで、シティの小陪審員に任命されるなど順風満帆な時期でした。この結婚を失敗とは思っておらず、恋愛結婚推奨を色々な場面で書いています。

商業こそが英国を背負って立つ男子一生の仕事と考えていました。雑貨、ワイン貿易、瓦礫製造など幾度も仕事を変えています。オランダとの貿易を画策し、ロッテルダムに向かう途中には海賊に襲われ拘束されたこともありました。この経験は、晩年に書いた『海賊通史』や『海賊シングルトン』誕生のきっかけとなっています。

2-3.政治活動へ傾倒する

1685年6月のジェームズ2世の即位に対し、モンマス公による反抗心にプロテスタントたちが加わった「モンマス公の反乱」が勃発します。この反乱は地方の協力を得られず惨敗に終わり、捕虜たちへの残虐な処刑が行われるも、翌年大赦があり多くの捕虜の命が救われました。デフォーの動向は定かではありませんが、参加するも運よく逃げ出し生き延びたようです。

宗教弾圧が続くカトリック信者を対象に、ジェームズ2世が標榜したことに激怒したのが参加理由でした。しかし、妻子のある身で仕事も投げ捨て、反乱に参加するとは…。中断はありましたが商売は続けており、1687年には父と同じく「フリーマン」を獲得します。

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