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「宮本武蔵」の人生は修羅場の連続!天下無双の剣豪武蔵の生涯をわかりやすく解説

2-1関ヶ原の戦い

1600年に起った、天下分け目の関ケ原の戦い勃発時は、17歳でまだ無名の武士でした。父は当時豊前国の領主黒田如水に仕えたと文書が残されています。『五輪書』では、父と共に東軍に参加したとされ、如水の弟黒田利高の息子黒田政成の与力として九州で働いたようです。

豊後に進軍し九州の関ヶ原と呼ばれた「石垣原の合戦」で大伴義統(おおともよしむね)に圧勝。豊前の富来城を包囲したときは先手を担います。槍で太腿をつかれ負傷するも、馬の糞を傷に塗り戦に戻ったとか。関ヶ原の合戦が半日で東軍の勝利となり、如水が降伏させ富来城は開城します。他説では、宇喜多秀家の重臣・新免伊賀守に従い西軍にいたとも(吉川英治の『宮本武蔵』や司馬遼太郎の『宮本武蔵』や『真説宮本武蔵』など、ほとんどの小説が西軍説)。

武蔵は密かに関ヶ原をチャンスと踏み、武功を挙げて仕官したいと思っていたようです。更に一国一城の主を夢見、野心に燃えていたとか。一方黒田如水は内々に、九州を制し天下統一を狙っていたようですが…。関ヶ原後は、黒田家に戻らず親子で、姿を消しています。この後、妻となる「お通」と出会うようです。

2-2大坂冬・夏の陣

「巌流島の戦い」から2年後とされる慶長16(1614)年11月19日に、豊臣家と徳川家の争い「大坂冬の陣」が始まります。31~32歳の武蔵は、自身の兵法による理論“小の兵法(1対1)が大の兵法(大軍を率いて戦う)に繋がる”という戦法を試したかったようです。武功を挙げ仕官を目指す武蔵は、雑兵のひとりとして参加しています。

冬の陣はあっという間に終わるも、武蔵は翌4月28日の「大坂夏の陣」では、後に福山藩主となる水野勝成軍の侍大将として参戦しました。日本国内最大の激戦といわれるだけあり、大坂城周辺では血で血を洗う壮絶な戦いを繰り広げたのです。武蔵には記録に残る活躍はなく、戦いに空虚感を感じたためか、またまた暫く消息が途絶えています。

2-3島原の乱

43歳の武蔵は小倉藩小笠原忠正の剣客となり、41歳の時に養子にした伊織は小倉藩に仕官します。寛永14(1637)年10月の武蔵が43歳の頃に、重税に苦しむ農民の一揆「島原の乱」が起こったのです。小笠原家の参謀的な立場で「軍監」という役職にあり、諸大名たちとの関係も親密でした。立場を度返しし何故か伊織と共に、戦場に出向き反乱軍の投石により足を負傷しています。

約4万人もの反乱軍は原城を占拠し勢い付いており、戦況は好転しません。武蔵たちは攻撃を辞め、城を包囲し敵が弱るのを待つ持久戦へと方向転換します。オランダ軍に協力を要請し、400発以上もの砲弾を浴びせたという事実も…。

反乱軍の弱体化が顕著に見え始めた、翌年2月28日に総攻撃を開始し、翌日には陥落しました。反乱軍の大半がキリシタンで、「キリシタン撲滅」の狙いもあり、女、子供に関係なく皆殺しにした上に、1万もの首が晒されたとか。こんなことに武蔵は、関わったのでしょうか…?

3. 武者修行の旅にでる武蔵

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有馬との仕合で“剣では歯が立たず、喧嘩勝ちだった”武蔵は、3年間養父から猛特訓を受け、修業を終えた16歳の時の仕合で但馬国の秋山という兵法者を打ち殺したようです。佐々木小次郎と激闘を繰り広げた「巌流島の戦い」をはじめ、伝説に残る武蔵の名勝負を厳選してご紹介しましょう。

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